- 作者: ファウストマナーラ,Fausto Manara,泉典子
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 1998/12
- メディア: 単行本
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著者はイタリア在住の精神科医。原題はイタリア語でTimidezza(臆病、小心など)だそうだ。文中ではこの語はすべて「内気」となっている。
世の中には内気を欠点だと思って悩む人が多い。ある調査では10人に9人が自分を内気、あるいは内気だったと回答しているそうだ。内気にもいろいろあり、いかにもわかりやすいパニックを起こすケースや対人恐怖症に悩む場合だけではなく、プレイボーイや成功した実業家、誰とでもにこやかに話す人なども悩んでいる場合が多いのだそうだ。それはただつけている仮面が違うだけらしい。
仮面は世の中渡っていくのに必要な場合もあるが、ほとんどは無理して仮面をつけてふるまううちに自分が誰かわからなくなったり、人生に実感がなくなったりするので、マイナスのことの方が多い。それを危惧した著者が、内気は本当に治さなければいけない「病気」なのか?を検証したのがこの本だ。
内気にはさまざまな程度があり、改善の方法も一通り紹介して注意すべき点も書いてあるので本当に悩んでいる人にいい本だと思う。しかし、内気のほとんどは自己評価の低さから来ているそうだ。多くは子どもの頃の親との関係などにより、後天的に内気傾向が強くなる。私もこの本を手に取るくらいなので、当然赤面もするし汗もかく。店で買い物するだけでも緊張して汗だくになるので典型的な内気だろう。しかし、内気が自己評価の低さから来るとは思わなかった。それだけでも読んでよかったと思う。
著者は内気を否定せず大切にすることで活路が開かれるとしている。自分を他人の批判の目で見ない、ことが大切になるという。自己批判をせず、ありのままの自分のよさを認めること。それが内気を病気扱いせずに個性としてとらえるきっかけになるそうだ。
いい加減仮面も苦しくなってきたので、そろそろ自分らしく生きていきたい、とこの本を読んで思った。
以下は私の読後メモです。興味のある方はどうぞ。
- ともかく内気の心理に共通しているのは、他人はこっちの内面や外面のきびしい批判者であると信じていることだ。だから無意識のうちに、心理学者ユージーン・セーガンの言う「病的批判」に自分をさらしてしまう。これは心の中からの否定的な声で、自分を批判するだけではなく、攻撃までする。
- ではどうして内気な人はノーが言えないのだろうか。精神科医のアレクサンダー・ローウェンの言うところによれば、何よりもまず「自分」という意識がしっかり育っていないからである。自分とはだれなのか、どんな価値があるのか、自分に何を期待できるのか、他人にどう受け取られているのか、といったことについて、はっきりしない。そのために、相手を不快にさせまいとしてイエスと言ってしまう。それは相手の意のままになることであり、自分自身の自由な意志の表現をこばむことにほかならない。
- ノーと言いたくない裏には、誰にでも気に入られる態度を取ることによって、周囲の人たちとできるだけうまくやっていこうとする心理もはたらいている。これは常に自分を否定することにつながるから、危険きわまりない。
- つまり、上か下かのどちらかの状態にしかいられないわけで、気分をなかほどにととのえておくことが苦手なのである。自分ではどうしようもない欠点は受け入れ、同じくらい動かしがたく存在する長所もすなおに認め、そうやってできるだけ快適にすごそうとすることができないのである。
自然に見せようとすることほど自然体をさまたげることはない(ラ・ロシュフコー)
人生をもっと創造的にしたかったら、視点を変えてみる必要がある。
- 図形と違って、私たちの生活、特に心理面での生活では、枠から出るためには、そのなかへ入って、外ではなく中心に向かっていかなければならない。注意力を外側に向けるのではなく、内側に向けるのだ。他人や他人の頑固の判断を中心に据えるかわりに、自分自身に注意を向けるのである。自分に対する自覚を前面に出すという、自己解放に向かっての変革が必要なのだ。その自覚がもてれば、罪の意識や恐れのかわりに、自分自身への愛を何よりも大事にできる。
5つの誤った見方
1.すべてか無か
すべてを絶対的に肯定するか、絶対的に否定してしまう。中間の段階がないから、失敗したらおしまいだと考えて、要求されていると思い込んでいることに最高度にこたえようと、がむしゃらに努力してしまう。
こういう人は内気を全く忌むべきものとしてとらえ、他人におかしいと思われない限り、いかなる手段を使っても戦わなければならないと考える。
2.安全圏にとどまる
危険を冒そうとしない。何か新しい企てを前にしても、失敗を恐れて臆病になり、自分の選択がもたらす否定的な面しか予測せず、よい結果が生まれるだろうとは考えない。しくじるのがこわくてつねに杭にしがみついていようとし、自分の欲求も願いも、出口のないせまいところに押し込めてしまう。絶対に大丈夫だ、非難される恐れはないと確信できる場合にしか、ものごとの選択をしない。
3.自分への評価を割り引く
経済の話ではなく、心理についての話である。この傾向のある人は、自分の資質やそれがもたらすものと、しかるべき関係がむすべない。自分がなしとげたすばらしいことも、割り引いて評価する。いくらいい結果を生んでも、それがかえって苦痛になる。評価され賞賛されるようなことをすれば、誰でも他人の注目を浴びる。そんなときは、これまでの苦労が実って、本当はとてもうれしいはずなのに内気な人にはそれが耐えがたい。自分はそんなにたいした人間ではないと思っているから、かえって不安を抱いてしまう。そんなに人目にさらされたら、隠しておきたい弱点まで見つけられ、上出来の結果が災難に変わってしまうのではなかろうか。そう思うから、成果を過小評価し、脚光を浴びるのをいやがり、自分の価値まで割り引いてしまう。
4.完璧主義
これにかけては内気な人の右に出るものはない。ほどほどという観念を知らず、自分に向けられている要求を最大限に解釈し、最良の結果を出さなければと思っている。内気な人は大目に見るということをしないから、完璧にこなさないと気がすまない。完璧主義は責め苦のようなものである。理想的な自分を目指し、そのため目標は高くなるばかりで、他人に認められようとして精も根も使い果たし、それでもまだ満足しない。内気を受け入れられない人は、自己評価が低すぎて、心からの喜びを味わうこともない。
5.運がよかっただけ
内気を克服したい人は、自分を隠すためなら、どんなに変わったトリックでも使おうとする。目に見えることまで否定しようとする。すごい成功だね、素晴らしいよ!そう言われたらすなおに喜べばいい。だれだって喜ぶのが当然だ。ところがそうはしない。成功したなんて、そんなこと、あるはずないのだ。もしほんとうに成功したのなら、それは神様のおかげでそうなっただけ、つまり運がよかっただけ、ということだ。ただのはにかみや謙遜からそう言うのなら理解できる。謙虚さはとがめるべきことではない。内気だったら、ちょっと後ろめたい気持ちを抱くことがあるかもしれないが、それもうなづける。けれども状況が逆になったら、話は別だ。成功したその同じ人が、ほかのところで、今度はちょっとした失敗をしでかしたとしよう。運が悪かった?何かがうまく運ばなかった?いや、そんなことは絶対にない。うまく
行かなかったのは今度は自分のせいで、責任はすべて自分にあり、自分が無能だったから、ふさわしくなかったから失敗したのだということになる。こんな人が心からの喜びを感じることなど、いったいあるのだろうか。
まとめ
内なる力を認めず、ただ挑戦せよ、上昇せよ、強くあれという今日の社会にあって、内気を大事にするということは、みな同じであれとする風潮に抗する、真に革新的な生き方ではないだろうか。
内気を大事ににしてこそ自分らしく生きられるのであり、ちがいを大目に見ることから一歩進んで、ちがいを評価するような人間関係が築けるのである。
仮面をかぶらず、恐れもせずに、誰もが自分の内気を大事にできる社会は、居心地のいい場所であるだけではない。みな同じがいいという思いこみから脱し、長所も短所も備えた個人を社会の核としておけば、心理的社会的に大きな意味のある変革をもたらすはずなのである。
これこそが、仮面も工夫も無用にし、内気への嫌悪感を払拭する方向なのではあるまいか。これは、一見するとたいした企てのようだが、達成がむずかしいことではない。自分の価値を公平に評価し、強さも弱さも、長所も欠点も、すべて受け入れればいいのである。
治しようのない欠点だと思いこんでいるものをまず受け入れ、それからむしろ大事にするようになれば、やがて自分のよさにも豊かさにも美しさにも心がひらく。
非難さるべき卑しい感情のように見えるものを否定し、内気を否定することは、私たち自身を否定し、私たちの尊厳を否定することにほかならない。
要するに、ステレオタイプの仮面をはずせば、そのまま新しい道を進むことができるのである。