毎日「ゴキゲン♪」の法則

自分を成長させる読書日記。今の関心は習慣化、生産性、手帳・ノート術です。

エゴとは何かがわかります☆☆☆☆

ご注意:この本は、ふだんこのブログで紹介している本とは分野が違います。何のことがさっぱりわからない、という方もあると思います。興味のある方だけお読みください。

以前、興味があってとある神道セミナーに参加したことがある。先生はことあるごとに私たちに「それはエゴです」と指摘した。私はそう言われるたびに「何がエゴなの?」とキツネにつままれたような、何となくイヤな気持ちになった。よくわからないものを指摘されると本当に困る。それ以来、エゴと聞いただけで条件反射のようにイヤな気持ちになるようになった。

この本は先月お話を聞いた、出路雅明さんがものすごく勧めていらっしゃったので興味がわいて読んでみた。開くと、いきなりエゴの話だったので「出た、またエゴか」と思った。
はじめはイヤな気持ちになったが、読み進むうちにだんだんイヤな気持ちにならなくなってきた。なぜなら、エゴが何なのか、どう扱えばいいのかが少しずつわかってきたからだ。

この本の趣旨は、エゴに支配されている人生から、エゴに気づいてそれを超越した状態になることを目指すものだ。そうすることで、世界が変わってくる、それがニュー・アースなのだ。
面白いと感じたのは、東洋思想が主だが、さまざまな宗教の言葉の解釈が出てくるところ。著者はイギリス人(現在はアメリカ在住)なので聖書の言葉もたくさん出てくるが、その真の意味が説明されている。それがすーっと心に染みてくるのだ。宗教そのものに問題があるんじゃなくて、解釈の仕方がだんだんずれてきているんじゃないか、と感じた。

私は基本的に無宗教で、ホテルの机の引き出しに聖書があっても使いようがないのだが、この本はもしかすると寝る前に読むと心が安らいで深く眠れそうな、キリスト教徒にとっての聖書のような使い方ができるかもしれないと思う。

心が目覚めているかどうかは、この本を読んで理解(何となくわかるような気がするのでもOK)できるかで判断できるそうだ。スピリチュアルなものに興味がなくても、とても辛い経験を乗り越えた方にも当てはまることが多いらしい。ピンと来た人はぜひ読んでみてください。偏りのない名著だと思います。


以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。

摂食障害とエゴ

エゴの特徴であるもっと欲しいという心理的な欲求、まだ充分ではないという思いは、場合によっては肉体的なレベルに移行して飽くなき飢えとなる。過食症患者は吐いてでも食べ続ける。飢えているのは心であって、身体ではない。患者が自分を心に同一化するのをやめて身体感覚を取り戻し、エゴイスティックな心を駆り立てる偽りの欲求ではなく身体の本当の要求を感じるようになった時、摂食障害は治癒する。

闘いは心の癖である

闘いは心の癖で、そういう癖から生じる行動はすべて、悪と想定される敵をかえって強くする。たとえ戦いに勝っても打ち負かした敵と同じような、それどころかもっと手ごわい新しい、新しい悪を生み出す。

エゴを機能不全として認識する

エゴをありのままに人間の心の集団的な機能不全として認識すること。ありのままを認識すれば、もうそれを誰かのアイデンティティだと誤解したりはしない。また、エゴに反応しないでいることも容易になる。個人的に受け止めることもない。不満を抱いたり、非難したり、なじったり、悪いと決めつけもしなくなる。誰も悪くはない。それは誰かの中のエゴ、それだけのことだ。

エゴから解放されるために必要なのは、

エゴに気づくことだけだ。気づきとエゴは共存できないからである。気づきとは、今この瞬間に秘められた力だ。だから、「今に在る」ことと表現できる。

事実と直面すると、必ず力が湧いてくる。

自分の思考が感情を生み出すということに気づこう。思考と感情の繋がりを観察しよう。思考と感情になりきるよりも、それを後ろから観察して気づく存在になること。
幸せを探してはいけない。探したら、見つからない。探すというのは幸せのアンチテーゼだからだ。幸せはつかみどころがないが、不幸からの解放なら、物語を作り上げずに事実と堂々と向き合うことによって、たった今実現できる。

自分自身を―自分にも他人にも―定義することはやめよう。

定義をやめても死にはしない。それどころか生命を取り戻す。それから、他人があなたをどう定義するかを気にするのもやめよう。定義する人は自分自身を制約しているのだから、それはその人たちの問題だ。人々とつき合う時には、機能や役割であるよりも、意識的に「今に在る」場として向き合おう。

ネガティブは望む意識があるから

ネガティブな状態になった時、あなたの中には必ずその状態を望む何者かがいて、そのネガティブな状態を喜びだと感じるか、それによって欲しいものが手に入ると信じている。
(中略)
だから自分の中にネガティブな状態が生まれた時、そのネガティブな状態に喜びを感じる、あるいはそれが目的達成に役立つと考える部分があると気づけたなら、あなたはまさにエゴに気づいたことになる。その時、あなたのアイデンティティはエゴから気づきへとシフトしている。

エゴは知的ではない

エゴは小賢しいかもしれないが、知的ではない。小賢しさは小さな目的を追いかける。知性はすべてが関連したもっと大きな全体像を見る。小賢しさは利己心によって動機づけられ、きわめて近視眼的だ。政治家やビジネスマンのほとんどは小賢しい。知的な人はとても少ない。小賢しさによって獲得したものは長続きせず、結局は自己破壊につながる。小賢しさは自分や人々を分断し、知性はすべてを包み込む。

禅では「真理を求めるな。ただ思念を捨てよ」という。

これはどういうことか?心との同一化を捨てなさい、ということだ。そうすれば、心を超えたあなた自身が姿を現す。

ペインボディからの解放

ペインボディからの解放は、まず自分がペインボディを「持っている」と認識することから始まる。それからもっと重要なのは、しっかりと「今に在る」能力と観察力だ。今の自分をきちんと観察し、ペインボディが活性化した時に重苦しいネガティブな感情が流れ込んだら、それがペインボディだ、と気づくこと。認識できれば、相手はもうあなたのふりをして暮らし、糧を吸い上げて大きくなることはできない。

ペインボディを感じた時、

自分は何かが間違っている、ダメな人間なんだなどと誤解してはいけない。自分を問題視する、それはエゴが大好きなことだ。ペインボディだと気づいたら、そのことを受け入れなくてはならない。受け入れずにいると、きっとまた見えなくなる。受け入れる時、何であれその瞬間に感じていることを素直に認めることだ。それは「今に在る」ことの一部である。今に在ることに反論はできない。反論はできても、自分が苦しむだけだ。認めることを通じて、あなたは広々とした、せいせいした自分自身になれる。もう、断片ではない(エゴは自分を断片だと感じている)。あなたの本来の真のエネルギーが湧き起こる。それは神の本性と一体だ。

「ほう、そうか?」

禅師は偽りにも真実にも、悪い知らせにもよい知らせにも、「ほう、そうか?」とまったく同じ対応をした。彼にはよくても悪くとても今という瞬間の形をそのまま認めて、人間ドラマには加わらなかった。彼にとってはあるがままのこの瞬間だけがある。起こる出来事を個人的なものとしてとらえない。彼は誰の被害者でもない。彼は今この瞬間に起こっている出来事と完全に一体化し、それゆえに起こった出来事は彼に何の力も振るうことができない。起こった出来事に抵抗しようとするからその出来事に翻弄されるし、幸福か不幸かをよそから決められることになる。

抵抗しない、判断しない、執着しない。

この3つは真の自由の、そして悟りを開いた生き方の3つの側面なのだ。

美を理解すること

たとえば美を理解し、シンプルなものごとを評価し、ひとりでいることを楽しみ、愛情をもって親切に人に接するという能力のいずれにも共通する要素がある。その共通の要素とは、これらの経験を可能にする見えない背景としての充足感、平和、躍動する生命感である。

毎日の生活の中でできるだけ内なる身体に気づき、空間を創ろう。

何かを待っている時、誰かの話を聞いている時、空や木を見あげている時、花を、パートナーを、子供を見ている時、それと一緒に自分の中の生命感を感じよう。こうして自分の身体の一部を形のない次元にとどめて、残りを外の形の世界に向けることを意味する。こうしてで分の身体の中に「住まう」ことは、今この瞬間に在るための錨として役立つ。思考や感情や外部的な状況の中で自分を見失わないですむ。

内なる目的に忠実であることで、生命(人生)に忠実でありなさい。

あなたが『今に在り』、全身全霊をあげて今していることをするなら、あなたの行為にはスピリチュアルな力が働く。最初は行為そのものに別に目立った変化はないかもしれない。ただ、やり方が変わるだけだろう。今や、行為の第一義的な目的はその行為に意識を込めることだ。二次的な目的はその行為を通じて達成しようとする何かだ。以前の目的は常に未来にあったのに対して、新たなもっと深い目的は今に、時間を否定した今だけに見つかるのだ。

目覚めた3つのモード

受け入れる、楽しむ、情熱を燃やす

本当に楽しいのは行動ではなく、

そこに流れ込む深い躍動する生命感で、その生命感はあなたと一体なのだ。だから行動を楽しむというのは、実は生命感のダイナミックな側面を体験することだ。だから何であれ楽しんで行動すれば、すべての創造のもとにある力と結びつくことができる。

力強く創造的に拡大するスピリチュアルな実践方法

毎日繰り返す日常活動のリストを作ってみよう。その中にはつまらないもの、たいくつなもの、平凡なもの、いらだたしいもの、ストレスの多いものも入れておく。だが嫌でたまらないこと入れない。嫌でたまらないことは、受け入れるかやめるかのどちらかしかない。リストには通勤、食料品の買い物、選択、その他退屈だったりストレスだったりする日常の仕事が含まれるだろう。
次にリストの行動をする時、それを気づきの実践の道具にする。することに全身全霊を注ぎ、行動の奥に自分の中の躍動的な生命感を感じるのだ。こうしてひとつひとつの行動に気づきつつやってみると、そういう状態ですることはストレスでも退屈でもいらだたしくもなく、それどころか楽しいことがわかるだろう。もっと正確に言うなら、外形的な行動が楽しいのではなく、行動に流れ込む内なる意識の次元が楽しくなる。行動の中に「大いなる存在(Being)」の喜びが発見できる。人生に生きがいがないとか、ストレスが多すぎる、退屈だと感じているなら、それはこの意識の次元を人生に持ち込んでいないからだ。まだ自分の行動に意識的になることが主たる目的になっていないのである。