この本を読んで初めて知ったのだが、山川さんはアメブロを書籍化する「アメーバブックス」の編集長をされているそうだ(出版当時)。当然ブログもアメブロで書いている。なので、どういうブログが書籍化できるか、という話は面白い(第7章)。いつかはブログを本にしたい、と思っている人にはいい本だと思う。
さらに、もちろん小説家なので小説の書き方についても触れられている(第8章)。
このあたりは、必要な人には一読の価値があると思う。
それ以外は、「文章教室」と銘打っているくらいなので、細かいこともいろいろ書いてあるのだが、面白かったのは「ブログは現代の万葉集である」とか、東大での偉い人が教え諭す(小説でいえば夏目漱石や森鴎外)という流れが今は変わってきているという文化的な話。もともと日本文学は日記文学で発展してきたんだから、原点回帰しているのだ、という説にはなるほど、と思った。
具体的な文章術というよりは、“小手先のテクニックよりもパッションだ”的な本だと思う。これも読み手を選ぶかも。
文化論的な話が好きな人には面白いです。
以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。
コラムとブログの関係(P55)
コラムという形式を厳密に定義することはできないが、「比較的短い文章で、何かの対象について私的な視点を持ちながら独特な世界を描く文章」ということになるのはでないか。コラムはブログという外枠にぴったりで、事実、ニュースをコラムとして扱ったブログには良質なものが多い。
エッセイ3つのコース『枕草子』『方丈記』『徒然草』(P61)
季節の移り変わりなどをベースに好きなものについて書いていく。その合間にさりげなく「私ってこういう女なのよ」という自己主張を隠しておいたり。これが『枕草子』コースだ。
無情感とまでは言わないまでも、哲学的な思索について書いていく。日常的な体験や風景を描写し、だがそれが自分なりの人生論や哲学につながっていく。これが『方丈記』コースである。
そして、オヤジのグチの『徒然草』コースである。同じのグチも「あやしうこそものぐるほしけれ」までいけば立派なものである。若い読者はギョッとして襟を正すかもしれない。
パトスとエトス(P93)
パトスというのは瞬間的エネルギーのことで、エトスは持続するエネルギーのことである。
文章を書くという行為は(P101)
「自分はどんな人間なんだろう」ということを不断に問い続けることなのではないだろうか。それを問い続けることの延長線上に、自分は誰に何を伝えたいのか、ということがぼんやりとながら見えてくるにちがいない。
それこそがテーマであり、想いであり、あなたが書きたいことなのあでる。
文章を音曲の構成で考える(P123)
音楽で言うと「歩いた。」「ぼくは歩いた。」「砂漠の上を歩きつづけた。」のあたりはAメロみたいなものだ。大したメロディではなく、むしろギターのリフの方が大切だったりするのだが、このAメロがないと楽曲はスタートできない。
次にくる長い文が、チェンジであり展開部だ。歌の場合ここはだいたい音域が上がりリフレインになっていて、ヒットする曲はこのリフレインのメロディが印象的なものが多い。
またAメロになり、チェンジを挟み、今度は大サビである。
(中略)
文章を書く場合は、それほど構成きっちり決めるわけではないが、メリハリをつけるという意味においては音楽と同じである。
体言止めは多用しない(P132)
ひとつの文章中にふたつ以上の体言止めがあったら、黄色信号が灯ったのだと肝に銘ずるべきである。
文学における編集の実技(P179)
1.原稿が読める。つまり作家の小説(エッセイ)を理解し、感想を述べることができる。最近は原稿をメールしても感想を述べない編集者が増えている。新入社員でも、これだけはやらないと編集者失格である。
2.現行の中の不必要な部分を削除したり、文章を推敲することができる。これを「赤入れ」という。作品のマイナス部分を補う作業だ。正確な日本語を読み書きする能力が要求される。口語に崩す場合でも、基礎は大事だ。
3.描写やシーンなど、加筆すべき個所の指摘をすることができる。これは作品にどれだけプラスできるか、という大事な作業だ。ここから、編集における能力の差が大きく開いていく。
4.はくしのじょうたいから、「この作家のこんな小説・エッセイが読みたい」とイメージすることができる。作家と編集者は二人三脚だといわれるゆえんだ。ブロガーであるあなたには、セルフプロデュース能力がとても大切になってくる。
5.その作家自身でさえ思いもよらない、向こう10年に及ぶ方向性を示すことができる。さらに現代文学の未来像を思い描くことができる。この領域に達している編集者は、業界全体でも数人しかいないのではないだろうか。