毎日「ゴキゲン♪」の法則

自分を成長させる読書日記。今の関心は習慣化、生産性、手帳・ノート術です。

“お金にものを言わせない”生活を手に入れる☆☆☆☆

3月から続けて読んでいる僧侶・小池龍之介さんの本。『貧乏入門』というギョッとするタイトルだが、それは私たちのイメージする“貧乏”とは違う。ケチケチすることでも、欲望を無理やり抑えることでもない。それどころか、“貧乏くさいと貧乏は違う”とまで書かれている。 ====


一番わかりやすい言葉はたぶん「清貧」なのだと思うが、私は著者が説いているのは清貧とも違うような気がした。なぜなら、“欲を持つなとは言わない。持たない方がいいが、持つならそれを責任持って満たしてください”というスタンスなのだ。

なぜ私たちはものをほしいと思うのか。忘れていたようなものでも、なくなっていることに気づいた時、なぜあんなに必死になって探すのか。そして、なぜ捨てられないのか。
――実は、これはすべて心の問題なのだ。


もちろん、この本でも「苦」と「快」のメカニズムがくわしく説明されている。そして、ものを所有することがこのメカニズムと密接に関わっていることがわかる。ものが捨てられないのはテクニックの問題ではない。何よりもまず心の問題なのだ。

この本が目指すことは次の一節に集約されていると思う。

……『貧乏入門』というのは、文字どおり「お金がない貧乏人になりましょう」という意味ではありません。欲望による消費をやめ、必要に応じて、良質のものを買い、その産業に投資するようなスタンスへ移行していくこと。そのことを通じて、欲望から自由になることです。
 たとえ潤沢にお金があったとしても、物を減らし、刺激に支配される消費をやめ、必要なものリストを贅沢に揃えることで、お金の支配から自由になって生きていきましょう、ということです(P188)。



仏教に特に興味がなくても、お金が貯められない、欲しいものが多すぎて悩んでいる人ならぜひこの本から読むのがおすすめ。著者のような生活*1は無理でも、この本に書かれていることを少しでも身につけられれば、豊かな気持ちで過ごせるようになる。その上、結果的にお金が余るのも夢ではない。
個人的には、“刺激を求める気持ちがエスカレートして、手に入らないものを欲しがるメカニズム”がわかって衝撃を受けた。そして、ものが多すぎるといかにノイズになるのかもよくわかった。とにかく捨てよう、と改めて決意。


以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。

お金があればものを持つ必要はない(P52)

つまり、倉庫を自分で持つ代わりに、流通や小売業をしている人たちが自分の家の倉庫番をやってくれている必要になったら、お金を払えば持ってきてくれる、それくらいの気持ちでいれば、自分がものを持っている必要はないわけです。

「快」のしくみ(P56)

たしかに、私たちは、「快」と感じます。けれども、それは、もともとあった「苦」が減っている状態を「快」と情報処理しているだけのことです。
(中略)
すなわち、「快」を感じるためには、その前提として「苦」が必要なのです。
この時、「苦」が10ポイントあれば「快」を10ポイント感じますし、「苦」が20ポイントあれば「快」を20ポイント感じます。
(中略)
人間が心と身体を通じて感じることのできる刺激は「苦」だけ。ただその量が増減するだけで、すべての感覚は「苦」でしかない。それなのに、その「変動」を心がデータ処理して、「快楽である」と変換してしまう――これが、現代的に見た「一切皆苦」であり、仏道の根本原理のひとつ、聖なる心理といわれることのひとつです。

「落差」=快感という誤解(P59)

快楽を得るには、「欲しい、苦しい」とい苦の増加した状態から、手に入ることにより「苦が減った」という落差が必要なのですから、気持ちよくなるのは、落差が発生した瞬間だけです。
(中略)
このように、よりいっそう苦しくならないと、気持ちよくなれなくなっていく――これが、次々に欲しいものがエスカレートしてくる理由です。
(中略)
やがて往々にして、それはものだけでなく、実現不可能で自分の能力に合わない職に就きたくなることだったり、実現不可能な人間関係を望んだりすることへと向かっていきます。実現不可能であるほど苦しい、でもその苦しみが解消した時には、これまで以上の快感がまっているのですから!?

欲望の「3D」(P62)

たいていのものは、最初は、必要から欲しかった。つまり、ディマンド(demand)です。ところが、だんだん必要性から逸脱していって、より大きな「苦→快」の落差を求め、徐々に「苦」の刺激の中毒になっていきます。デザイアー(desire)、欲望です。このデザイアーがさらに逸脱していくと、完全に「苦」に支配され、もはやコントロール不能のドライブ(drive)、衝動になります。

「夢」は実現不可能なもの(P64)

どうも、現代人の自意識は過剰になっているのでしょうか、今自分がやっていることに、不満ばかり言っているように思います。とにかく別のことがやりたいと、今、ここにはない、どこか夢の世界みたいなところを求めているように思います。
その最大の理由は、夢は夢であって、実現しないでいてくれるからです。つまり、いつまでも実現しないがゆえに、たくさんの苦しみ=刺激の電気ショックを脳に与えてくれるからなのです。
夢は目標とは違います。実現可能なものは夢とは言わずに目標といいます。現代人が夢見がちな理由は、苦痛大好きの刺激中毒・欲望中毒になっていて、わざわざ実現しないものを望むことによって苦しむというからくりに巻き込まれているからです。
(中略)
私の目には絶対に幸せにならないところへ人々は向かっていて、潜在的にはそれと知っていながら、わざわざ不幸を選んでいるようにしか見えません。

幸福になれないシステム(P67)

私たちは、欲のサバイバルゲームに絡めとられつつ、実は常に「苦」を味わわされています。ところが、脳のデータ処理システムが勝手にその「苦」の増減=落差を「快」とデータ変換してしまうため、「これは『苦』だから抜けだそう」とは思えないのです。
(中略)
このサイクルから抜け出す第一歩は、もともと欲しいものを減らすこと、すなわち、「ものを持つ」「人を持つ」「ステータスを持つ」ことに対する欲望から足を洗うことなのです。

欲を持つなら満たす(P91)

もちろん、欲がない方がいいのは当然なのですが、あるなら満たせたほうがいいでしょう。苦痛は消さなければならないけれど、欲望を根こそぎ消すことができないのであれば満たさなければならない、と考える方がまっとうです。
なぜなら、欲望が満たされていない人間は、周囲に不幸を振りまくからです。まわりに迷惑をかけるからです。ある意味、私たちには、欲望を持つ以上、それをちゃんと満たす義務があるといってもよろしいでしょう。

「慢」とは(P104)

「慢」は、わかりやすい言葉で言えば、プライドです。さらに、プライドを別の言葉で言えば、「承認要求」です。自分で自分に行う承認と他人からの承認、このふたつを合わせた承認要求です。
つまり、「慢」とは、とにかく自分の存在値を高めたい自分の商品価値、値札をつり上げたい、つり上げたい、つり上げたい、つり上げたい……と願う煩悩。そして、誰かに認めて、認めて、認めて……と願う煩悩です。
この「慢」の煩悩が、現在私たちを覆っている閉塞感、無力感と大きく関わっています。

心頭滅却すれば……の本当の意味(P141)

全文は、「安全必ずしも山水を用いず。心頭滅却すれば火もまた涼し」。
安らかな瞑想は、必ず下山や川の快適な環境でしかできないものではなく、心のデータ処理をストップすれば、火の中での瞑想もまた苦痛ではない、と。

“幸福感を感じる”とは(P149)

私たちが幸福を感じるのは、「集中という精神統一」があり、「思い通り」であり、そして、「迷いがなく、確信がある」ということでした。

必要なものと欲しいものをリストに書き出す(P164)

実際につけてみると、欲しいものと必要なものというのは、その時々の心の落ち着き度合いや興奮の度合いに応じて変化してしまって分類がむずかしいものです。
(中略)
つまり、必需品のカテゴリーにあるものの中でも、それを揃えようと思った時には、その中でまた、必要なものと欲望に流れて欲しいものの区別をつけていく必要が生じてきて、そこがなかなかむずかしいところとなります。
なお、欲しいものを絶対に買ってはいけないというわけではありません。ただ、必要なものをまだ満たし終えていないのに、欲しいものの方へ飛んでいってしまうと、心がおかしくなっていく、ということです。

お金があろうとなかろうと、変わらない自分(P171)

お金が少ない時はケチケチしていたのにお金がたくさんあると急に贅沢になってしまったり、再びお金がなくなるとケチケチしてしまうようでは、お金に踊らされていることになり、心が疲れてしまいます。お金に翻弄され、心がコロコロ変化してしまうようでは、幸福感の条件にあげた「信」がすぐに壊れてしまうことになります。
「信」があることによって、お金があろうとなかろうと、そのことに影響を受けずに、淡々とお金を使いこなすことができます。
すなわち、お金がある時でも幸福ですし、お金がない時でも幸福、お金から心が自由だということが、、私たちに揺らぎない足場を与えてくれるのです。

*1:序章にその暮らしぶりが紹介されています