毎日「ゴキゲン♪」の法則

自分を成長させる読書日記。今の関心は習慣化、生産性、手帳・ノート術です。

新聞記者が教える、伝わる文章を書く心得☆☆☆

著者・近藤勝重さんは1969年に毎日新聞社に入社したベテランジャーナリストだ。編集長や専門編集委員もされていて、もちろん著書も多数。
この本は、早稲田大学・大学院のジャーナリズムコースで行った「文章表現」の授業をもとにまとめられたもの。ストレートなタイトルに惹かれて読んでみた。


書かれているのは小手先のテクニックではない。
私が思ったのは、新聞記者なのに、いや新聞記者だからかもしれないが、“読む人の心を動かす”のが非常にうまい人だということだった。たくさんの本から引用されているが、これが城山三郎さんの『そうか、もう君はいないのか*1をはじめ、引用部分を読んだだけなのに涙腺が緩んで大変*2、というものばかり。
ジャーナリストが書く本なのに、自分自身をどこまで書くかなど、テーマが面白くて新鮮だった。文章に読む人の感情を揺さぶる力がなければ、伝わらないのだ。どんなジャンルの文章でも、感情を揺さぶるように伝えていいのだ*3、というのは私にとって大きな気づきだった。

著者の考える「文章に必要なこと」は、前書きの一節にまとめられていると思う。

 授業で重視したのは、ジャーナリスト志望であれ何であれ、文章を作るうえで知っておきたい基礎的な事柄です。とりわけこだわったのは、自分ならではの体験にもとづく「内容」と、自分ならではの「表現」の二点です。
 文章のノウハウ本はすでにたくさん出ています。書くうえでの技術的なことは無視できないと思っています。ただ文章は技術以前に内容がなければなりません。内容がないとはじまらないのです。かつ、その内容はさまざまな意味において「自分自身」であるべきだと思います。

細かいテクニックやノウハウではなく、基礎的な力をつけたい人には素晴らしい本です。豪華な引用部分を読むだけでも価値があります。


以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。

自慢話はしない(P20)

…何か自慢しているみたいですね。いや、みたいじゃなくて自慢してるんですよね、きっと。ですけど、作文では自慢話はご法度です。自慢話は反発を招くだけ。そこに共感はありません。

文章も演技同様、やりすぎない(P33)

抑制が効いているから筆者の思いが伝わる。いかに書くかはいかに書かないかだ、といったことをおっしゃっていた作家が何人か思い浮かびます。
これは俳優の演技だって同じなんですね。生前、緒形拳さんは「演じることは演じないことなんです」とテレビでおっしゃっていました。

井上ひさしさんのことば(P47)

いい文章とは「自分にしか書けないことを、誰にでもわかるように書くこと」 

鶴見俊輔さんのことば(P48)

文章で大事なことは「誠実さ、明晰さ、わかりやすさ」 

鶴見俊輔文章心得帖』より――明晰さとは何か(P48)

「明晰さ」とは何を目安にした明晰さ、かというと、自分のものの考え方の展開とか、自分が今、何をやろうとしているかをしっかり知っている、という意味の明晰さです。今、自分は何を書こうとしているのか、どう書いているのかを、はっきりつかみながら、という明晰さです。

心がけたい3原則(P58)

1.事実を具体的に描き出し、そこから答を抽き出す
2.「生きるとは」あるいは「人間というもの」を頭のどこかにおいて書き進める
3.人、物合わせて物事全般の現在・過去・未来を見つめつつ書く

作家・中野孝次さんの「ガン日記」より『文藝春秋』(2006年7月号掲載)

二月十七日午後
 座椅子に坐って陽に当たっていると、椿やミカン、スダチなどの濃い緑の葉が光り、鳥が石の上に置いたミカンを啄みに来、犬たちが龍のヒゲの上に気持ちよさそうに寝ている。すべてこともなく、よく晴れ、風もなき冬の午後にて、見ているとこれが人生だ、これでいいのだ、と静かな幸福感が湧いてくる。これ以外に何の求むるものがあろうぞ、と思う。
 食道ガンなどということは、遠き悪夢の如きものにしか思われず。
 もし全摘出手術の如きを迫られたら断るしかない、と予め防禦策を定めておく。

こう続けて5ヶ月後に人生を閉じるのですが、ぼくが先に挙げた3点の実際例がここにあります。
(中略)
日記であれ、手紙であれ、作文であれ、人間は文章を書くことを通して自分を見つめ、考えを深めていくものです。

淀川長治さんがテレビ番組『徹子の部屋』でした話(P84)

「小学校の頃映画を見て帰ると、その夜、父母や家族が『どんな映画を見たの?』『どんな人が主役だったの?』といろいろ聞いてくれるので、うれしくて一生懸命説明しました。それでますます映画が好きになり、人前で話をする訓練にもなりました」
親は子にすぐに思い出せる具体的な事柄を聞き出す。子供の気持ちがその話に集中する。そうしているうちに心の中で思ったことも言葉になってくる。この流れが大切なのは、ぼくらが文章を書く時も同様です。書きたいそのことをどう思うかより、そのことを五感がどう受けとめていたかを探ってみる。五感の反応を思い出すことに努めるわけです。

丸谷才一さんの『思考のレッスン 』より(P114)

 ところが文章を挨拶から書き始める人が多い。ほら、中学の作文で「秋」という題が出ると、「秋という題で作文を書かなければならなくなって、さっきから困っている」なんて書く子がいるでしょう。プロの文筆業者が書いている随筆でも、「のっけから私事で恐縮だが……」といった挨拶で始まるものがけっこうある。恐縮なんかする必要はない。私事であっても、必要だと思ったら書けばいい。こういう前置きがあると、もう読むのがいやになってしまうんですね。
 書くべき内容がないか挨拶を書く。挨拶はダメだという基本の文章心得を知らないから書く。「挨拶は書かない」、これを現代日本人の文章心得にすべきなんです。

起承転結の「結」にひと工夫(P115)

「結」は結び。全体のまとめですが、ありきたりな決意表明とか、近いとか、いい子の見本のようなことを書いて終わったら、その文章はそれまでどんないいことを書いていても駄目になると思います。小ぎれいにまとめるよりはノンシャランとした態度の方がいい。ヤマ場の「転」の余韻のうちにさりげなく終えられれば、それが一番でしょう。下手な「結」より、「転」「転」で終わる方がいいように思います。

感情を伝える(P122)

ニュースの現場にいない読者をその場にどれだけ案内できるか。記事によっては当事者の姿や表情も端的に伝えるべきです。
(中略)
新聞では「言った」という言葉が多用されています。人の話を受けた表現では群を抜いて多い。でも「言った」も、その人がどんな調子で言ったのか、強い調子で言ったのか、弱々しかったのか、口をとがらせていたのか、それとも微笑を浮かべていたのか、あるいは苦々しい口ぶりだったのか、そういう感情表現の有無で同じ「言った」も変わってきます。

接続詞・副詞は削る(P180)

文意に不要な接続詞、副詞の削りは忘れないでください。先にもふれたことですか、ぼくは記者として何よりも原稿にスピードを求められてきました。それには接続詞や副詞を使って書き進めるのが一番でした。「そして」「しかし」「おそらく」「さらに」といった言葉とともに筋の通った原稿ができあがっていくのです。
ですが書き終えて読み直すと、ほとんどいらないことに気づきます。どんどん書き進めるうちは推進力の役目を果たしてくれます。書き終えればその役目も終わります。残骸でしかない言葉は削ってください。

萩原朔太郎『僕の文章道*4より(P187)

 僕の文章道は、何よりも「解り易く」書くということを主眼にしている。但し解り易くということは、くどくどと説明することではない。反対に僕は、できるだけ説明を省略することに苦心して居る。もし意味が通ずるならば、十行の所を五行、五行の所を一行にさえもしたいのである。特に詩やアフォリズムを書く時には、この節略を最小限度にして、意味を暗示の中に含ませることを苦労する。もしそれが可能だったら、ただ一綴りの言葉の中に、一切の表現をし尽くしてしまいたいのである。しかし普通の散文、特に論文などを書く時は、暗示や象徴でやるわけに行かないので、多少冗漫な叙述風になるのは止むを得ない。しかしその場合でも、僕は出来るだけ簡潔に、そして意味をはッきりと、明晰に解り易く書くことに苦心する。

*1:先に亡くなられた奥様との半生をつづった本です

*2:これは私が涙もろいせいかもしれません

*3:自分の気持ちをそのまま伝えるのではなく、そこには重要なポイントがあるのですが

*4:吉行淳之介編『文章読本』に収録されています