山田無文老師(1900年〜1988年)は禅宗のお坊さんで「昭和の名僧」とも呼ばれている人だそうだ。この本を手に取る人なら当然知っている、ということなのか、この本にはまえがきもあとがきも、山田老師に関することも何も書いていなかった。話が上手で法話も数多く行い、著書もたくさんあるそうだ。
「説話集」の名前通り、語り口調そのままなので読みやすい。ひとつひとつの話もそれほど長くないのでこういうジャンルにあまりなじみがなくても読めると思う。
私も禅宗に特にくわしいわけではないが、ところどころお経の意味が出てきたり、故事のようなお話が出てくるのでその意味でも面白かった。時々“若い頃、キリスト教の布教者を言い負かした話”など、よくわからないエピソードも出てくるが、全体に今読んでも新鮮だ。読むだけで心がさっぱり洗われる気分だった。
仏教に興味はあるけどなかなかハードルが高くて…という人には、こんな本から読むのがいいかもしれない。心のもやもやを何とかしたい、という人にも一読の価値ありです。
以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。
毎日新しい心で(P16)
庭の草木を見たって、毎日朝顔のつるが伸びておる。昨日咲いた花は今日は咲かん。水の流れは毎日違っておる。自然の世界は毎日新しい。人間の心だけが古いところにこだわっておる。それが病気であります。
自然だけじゃない、われわれの体でも新陳代謝して、昨日の細胞と今日の細胞とは違うのです。すべてが新しくなっていくのだから、心も新しくして、昨日のことは忘れて、昨日喧嘩したことは忘れて、昨日人を恨んだことは忘れて、憎いこともうれしかったこともすべて忘れて、新しい心で今日を迎えていくということが、道というものであります。それが本当の人間の生き方であり、正しい生き方であります。
ひとつひとつ片づけていけばいい(P37)
(夜汽車に乗り、窓を見ていて気づいたこと)
窓はちっとも動いてはおらん。こちらから見ると向こうが動いてひとつひとつ入ってくる。ひとつひとつ変わった景色が入ってくる。窓はちっとも動いてはおらん。なるほど、どんな複雑な問題が起こっても、ひとつひとつ片づけていけば、窓が動かんように、こっちは心を動かさんでもいいな、こう考えたら気が楽になりました。
修行をして仏になるのではない(P52)
本来天真仏である。本来光った黄金である。溶鉱炉の中に入れて金ができるのじゃない。カスさえ取れば本来光っておる金だ。本来お互いは仏性そのものであるから、そこへ直入しさえすればいい。そこへ飛び込みさえすればいいのである。
どこへ行こうが禅を失うな(P60)
お寺へ来て坐るだけが禅ではない。毎朝20分坐る、30分坐る、悪いことではない。いいことだが、その間だけが坐禅で、立ったらもう駄目だと、それは禅ではない。立っても坐っても歩いても、そこに定がなければならん。働きがなければ禅が意味をなさん。
この頃のように世間が騒がしくなって、みなが神経を使うから、坐れ坐れと言うのだが、坐れ坐れと言うと、みな座り込んで、ちょっとも働きがなくなる。ジッとお寺に坐って社会に出んのが禅だと、そんな馬鹿なことはない。そんな禅ならば、麻酔薬を飲んで寝とるのも同じことだ。どこへ出て行こうが禅を失わないというのでなければならん。
因果とは何か(P118)
たとえて言うならば、ここに籾という種子があって、それを田んぼに播く。大地と水と、太陽の光線と熱とによって籾が芽を出し、そして肥料によって育っていき、やがて実を結ぶ。初めの籾が「因」であって、実ったのが「果」であります。その籾が実るためには、大地があり、太陽の熱があり、人間が肥料を与え、害虫を取る。これが「縁」であります。「因」と「縁」によって結果が出てくる。まことにはっきりしたものです。
よいことをすれば必ずよい結果が、悪いことをすれば必ず悪い結果が出てくる。善因善果、悪因悪果です。すべては因だけ、自分の意志だけではいかんのであります。
途中でやめてはいけない(P196)
…坐禅の修行でも、社会の事業でも、途中で棒を折ってはなりません。
怠らずゆかば千里の外も見ん
牛の歩みのよしおそくとも
と古歌にうたわれておるごとくであります。同じことを、じっと長く休まず続けておる者が、結局、最後の勝利を得るようであります。人のまねをしてみたり、ずるく立ち回ったりする者は、一時はいいようでも、決して成功するものではありません。こういう不屈の精神を精進と申します。
自分でやらねばならぬこと(P199)
私どもは、どんなに人に助けてもらいたいと思っても、自分ひとりでやるより仕方のないことがあります。そういうように、人からどうしてもらうこともできない自分というものを自覚するところに、悟りがあるのであります。
余白を心に残す(P202)
日本の美術は、画でも書でも、空間を尊ぶのであります。何も書いてない空白なところに、大きな意味を感ずるのであります。それは、満たされない美を喜ぶ心でありましょう。
(中略)
相手の言葉を素直に受け入れる余裕を持てる心が、東洋的な心だと思います。いつでも、他を受け入れる余白を、心に残しておくことが、宗教的な心だと思います。
一息つきなさい(P206)
(昔ある忙しい人が、無文老師の師匠に“坐禅する時間もないので、もっと簡単で効果的な方法はないか”と相談した話)
そこで師匠は、「一息つきなさい」ということを申しました。これから仕事にかかる時、何かむずかしい問題の起こった時、あるいは大事な会談をする時、あるいは疲れて頭の混乱した時、一息をつくのです。フウーッと全身に力を入れて深い息を吐く。それだけです。その間は、何もかも捨て、何もかも忘れる。ほんの数秒でありますが、その数秒の三昧が、実に活動の原動力になると話されました。
太閤さんの心がけ(P214)
太閤さんが、「わしは、太閤になろうなどと思ったことは一度もない。ただ足軽の時は、一心に、喜んで足軽のつとめを果たしただけだ。すると、いつのまにやら土分になった。土分の時には、また喜んで、一心に土分のつとめをした。すると、いつのまにやら大名になった。大名になったからには、ますます励んで大名のつとめをした。そしたら、いつのまにやら天下を取ることになり、太閤にまでさせられてしまったわけだ。だから、一度も太閤になろうなどと心がけたことはない」と答えられたということであります。
大変尊いお話だと思います。とかく私どもは、結果を求めることばかりあせって、脚下がお留守になり、今日のつとめを怠りがちですが、そこに失敗の原因があります。その日その日のつとめを堅実に果たしてゆけば、未来の成功は、おのずから席を空けて待っておるのであります。