毎日「ゴキゲン♪」の法則

自分を成長させる読書日記。今の関心は習慣化、生産性、手帳・ノート術です。

日本語を見る目が変わる作文術☆☆☆

家族が借りてきたのでついでに、という感じで読んでみたが、予想以上にいい本だった。ひと言でいえば「痛快」な文章術だと思う。


著者・野内良三さんは学生時代フランス語を専攻し、いくつかの大学を経て現在は関西外国語大学教授をされている人だ。経歴を見て硬そうな本、と思うかもしれないが、実はその逆。

若い頃に『怪盗ルパン』シリーズの翻訳を頼まれて“こなれた日本語”に困った著者は、大衆小説*1推理小説*2を読んでまるで外国語の勉強のようにそこから使える表現をカードに書き取ったそうだ。その数4000枚以上。

著者の文章術はその体験がベースになっているので、他に類を見ないと思う。何しろ

外国語を初めて学んだときの姿勢で日本語を見直そう

が基本方針なのだから。
文法的にも独自の見方が展開されていて言語学の本のようだが、非常に納得できる。

“翻訳調の文章”をヨーロッパ語と日本語の構造の違いから来るものと考え、論理的な文章をわざと翻訳調に近づけるというのは新しいアイデアだと思う。練習問題までついているので、こなれた訳文の書き方指南としても使える。


もうひとつの大きな特長は、文章にオリジナリティを求めないという方針。

作文に独創は必要ない、使い古された言い回しを上手に使いこなせればいい――これが私の文章作法である。

表現はどんどん拝借しなさい、というのだ。それも昔からあるようなオノマトペや慣用句のような、著者がいうところの「定型表現」*3を使う。決まり文句は使うな、という本が多い中で勇気ある意見だと思う。これを、著者は「パッチワーク的作文術」と呼んでいる。すべてを自分で作ろうと思うから大変なのだ。「すでにあるものは拝借する=引用」でいいと思えば、文章を書くというプレッシャーからかなり楽になるのではないだろうか。


内容は学術的な部分もあるので「やさしく読める」とは言いにくいが、著者の“こなれた日本語”のおかげでかなり救われる。
「パッチワーク的作文術」という言葉にピンと来た方はぜひ読んでみてください。


以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。

話し言葉と書き言葉は別(P6)

(とりわけ日本語はその隔たりが著しい)
なまじ同じ日本語だと思うから無用な混乱が生じる。話し言葉から見れば書き言葉は「外国語」である。書き言葉には書き言葉の「文法」がある。話すようには書けないのである。

文章は「面白くて、ためになる」ことが最上(P8)

「面白い」は芸術文の目標、「ためになる」は実用文の目標と言えないことはない。
(中略)
内容がよければ、書き方(文章の出来ばえ)はあまり問題にならない。もちろん、面白くてうまく書かれていれば、鬼に金棒だが、そうは問屋がおろさないだろう。まあ「面白い」か「ためになる」か――そのどちらかであれば、よしとすべきだろう。面白ければ役に立つ情報が少なくても文句はないだろうし、有益な情報が得られれば面白くなくてもがまんするだろう。

「短く書くこと」は単に文を切るだけの問題ではない(P23)

「思考の流れ」と深く関係しているらしい…考えがしっかりまとまっていないから、文が長くなるのである。
(中略)
短文を書くことは、いわば「思考の流れ」に節目を入れることだ。もともとつながっていた思考をいったんバラして、組み立て直すことだ。「切って、つなぎ合わせる」にはマクロの視点が要求される。(中略)短い文の上限は句読点込みで50字から60字である。
(中略)
…その方が書きやすいということであれば、下書きの時は長い文で書いてもいっこうに差し支えない。(中略)推敲の段階で短くすればすむことである。

短文が使えない時の文をスッキリさせるテクニック(P32)

(1)予告する
(2)箇条書きにする
(3)まとめる(「要するに」、「つまり」、「以上のことをまとめれば」、「大事なことは」など)

形容詞の語順(P46)

(1)ひとつの語に、長い修飾語と短い修飾語がつく場合は長い方を前に置く。
(2)修飾語はなるべく被修飾語の近くに置く。

翻訳調で考える(P86)

抽象的な文章を読んだり書いたりするというのは、何のことはない翻訳調で考えるということなのだ。たとえば次のようなふたつのタイプの日本語を考えてみよう。
(2) 日本人の貪欲な好奇心が海外の文化の積極的な受容を可能にした。
(2)’貪欲な好奇心のおかげで日本人は海外の文化を積極的に受け入れることができた。

(2)と(2)’の決定的な違いは主語の役割の軽重である(「日本人の貪欲な好奇心が」対「日本人は」)。言い換えれば名詞中心構文か、動詞中心構文かである。報告書や論文、評論などの硬い文章は名詞=主語中心の翻訳調の文体で書かれている。本来の日本語では対応できないからである。これは述語中心の日本語の宿命である。

「名詞中心文」→「動詞中心文」書き換えの原則(P88)

(1)名詞は動詞に換える
(2)形容詞は副詞に換える
(3)無生物主語は原因・理由、手段・条件、あるいは場所・時間の表現に換える

文章の目的は説得することである(P102)

説得力のある文章・3つのポイント(P102)

(1)曖昧でないこと(誤読・誤解を誘わないこと)
(2)難解でないこと(むずかしい表現や特殊な用語が使われていないこと)
(3)独りよがりでないこと(不快の念を与えないこと)

読み手の身になって書く(P103)

自分の文章が読み手にどう読まれるか、どういう印象を与えるか。自分をいったん突き放して相手の身になってみて書く――このモットーを実行するだけで、どれほど悪文は減ることか。悪文とは読み手に無用の努力(心理的負担)を強いる文章のことだ。誤読できない、また誤読させない、気配り充分な文章を書かなければならない。一読してすらすらと頭に入ってこない文章は悪文だ。

文章には必ず論拠を(P104)

人を説得するには自分の主張をただ並べるだけでは駄目である。主張には必ず論拠を示さなければならない。言い換えれば「説得」とはきちんと理由(論拠)を挙げて自分の考え(主張)を相手に示すことだ。文章は必ず「主張する部分」と「理由を挙げる部分」とを含まなければならない。

文章の展開(P113)

まずはじめに自分のいいたいこと(主張)をずばりと言い切る。それから、おもむろに自分の論拠を挙げる。そして必要な場合には――たとえば長い段落の場合や、強調したい時――段落の最後でもう一度、結論を繰り返す。大事なことは何度でも繰り返す、これは覚えてほしいモットーである。

演繹論証とは断定すること(P139)

「法則的なもの」を拠り所とする演繹論証はどうしても断定調になる。むしろ、きっぱりと断定することが演繹論証なのだと考えた方が正解だ。

帰納論証とは例を挙げること(P142)

専門的論文ではきちんとデータを集め、慎重に結論(解釈)を引きだすことが要求されるが、日常的議論ではむずかしく考える必要はない。帰納論証は、要するに適切なうまい例をいくつか挙げるということだ。

演繹法帰納法か(P152)

面白いアイデアがある時は演繹法がいいし、手持ちのデータがたくさんある時は帰納法がいい。演繹法は理詰めでカッコがいいが、押しつけがましいところがある。帰納法は間違った解釈を引き出してしまう恐れがなきにしもあらずだが、新しい「法則的なもの」を掘り当てる可能性がある。ポイントは、演繹法帰納法の特徴をしっかりと把握し、うまく使い分けることである。

寺田寅彦の言葉(P188)

或る問題に対して「ドーデモイイ」という解決法のあることに気の付かぬ人がある。何ごとでも唯一つしか正しい道がないと思っているからである。

オスカー・ワイルドの言葉(P188)

生きることはこの世でもっとも稀なことである。たいていの人は存在しているに過ぎない。

*1:著者によれば、柴田連三郎やつかこうへいなど

*2:(同)横溝正史江戸川乱歩など

*3:具体的なリストも、巻末にかなりのボリュームで載っています