毎日「ゴキゲン♪」の法則

自分を成長させる読書日記。今の関心は習慣化、生産性、手帳・ノート術です。

日本語を“残す”ために☆☆☆

ショッキングなタイトルで、上梓された2年ほど前にかなり話題になった本。私もいつかは読みたいと思いながらそのままになっていたが、小飼弾さんお勧めの100冊にあったので、この機会に読んでみた。


普通に日本に暮らしていて、「日本語」と「亡びる」という語を結びつけて考える人はおそらくいないだろう。日本という国は当分存在するだろうし、使う人がいなくなることもまず考えにくい。

だが、この本を読めば「亡びる」という言葉が大げさではない、という気になる。背筋がぞっとする。そして、それにとどめを刺したのは、やはりインターネットだったのだ。

 
この本は、「言語」について深く考察した本だ。まるで言語学者のように緻密で詳細なデータと歴史を使い、おそらく著者しか持てない視点で、美しい日本語で書かれている。

「著者しか持てない視点」というのは、著者の生い立ちによる。
12歳の時、父親の仕事の都合でアメリカに渡ったものの現地になじめず、父の持っていた古い日本文学全集ばかり読んでいたという。それなのに、30過ぎまでアメリカで大学、大学院と仏文学を専攻、海外で日本文学を教えた経験も多いそうだ。日本人なのに長い間国外から日本を見るポジションにあり、英語の中にどっぷり浸かりながら同化しなかった人。そんな著者だからこそ、書けた本だと思う。


この本では、「言語」には何種類かあるとしている。<普遍語><現地語><国語>。場合によっては<公用語>が必要な場合もある。日本人にとって<現地語><国語><公用語>すべてが日本語だが、これがすべて同じ国は英語圏以外ではめずらしいという。この本を読めばわかるが、一番話されているからといってそれが公用語になるとは限らないそうだ。

この本を読んで、日本は「平和ボケ」と揶揄されることがあるが、実は言葉にも「平和ボケ」が起こっているのではないかと思った。著者の主張によれば、英語を<現地語><国語><公用語>にいずれかにしている国と比べ、非英語の国は文化的レベルが高かったしてもそれを世界に伝えることができず、いずれはローカルレベルの国になってしまうという。その国で使われている言語も同じ運命をたどる。
つまり、現代は<普遍語>=英語になっているのだ。


いかに英語/非英語によってたどる運命が違ったのか。一時は英語と肩を並べて同じだけ重要度が高かったフランス語/ドイツ語が今ではローカルレベルの言語(英語に翻訳されることでしか流通しない。よほど価値のあるものしか英訳されない)に成り下がった歴史は目を覆いたくなるほどだ。
それは、やはりインターネットによるものだという。


情報発信も、受け取るのも、英語であることが前提になってきているそうだ。広く世界に発信したければ、英語で書くしかない。
確かに、私も仕事柄英語の本は読むが、必要な情報が翻訳されるには時間がかかるし、訳されないものも多い。必要なら英語のまま読むしかない、という状況になっている。

世界に向けて伝えたければ、英語で書くしかない。つまり、ホームページやブログを英語で書くのが当たり前の時代が来てもおかしくないのだ。


著者の危惧は、英語で発信することが当たり前になった時、日本語は<書き言葉>としての役目を終えてしまうかもしれない、ということだ。もちろん、<話し言葉>としては残る。しかし、著者は<書き言葉>と<話し言葉>は違うものであり、情報発信する役目である<書き言葉>が英語に置き換わってしまうかもしれない、と主張している。


<書き言葉>としての日本語をどう残すか。国語教育が大切だ、という著者の意見はとても重みがある。そして、すでに<書き言葉>としての日本語は形を変えつつあるという。それは著者の“日本文学に対する憂い”につながるのだが、なぜ私が小説を読めなくなったのか、その理由がよくわかった。


重いテーマであり、大々的な憂国論とも読めるので時々ため息がつきたくなるが、日本語や英語に興味がある人、文学を愛している(またはいた)人、翻訳や言語学にかかわる人にはぜひ読んでもらいたい本。