毎日「ゴキゲン♪」の法則

自分を成長させる読書日記。今の関心は習慣化、生産性、手帳・ノート術です。

仏教は「今幸せになる」ためのもの☆☆☆

 

小飼弾さんの『空気を読むな、本を読め。』の巻末で紹介されていたおすすめ本リストの1冊。
タイトルに不思議な印象を受けた。ふつう、宗教は科学と正反対のように思うのに、仏教が科学?それで読んでみたくなった。

 


著者のアルボムッレ・スマナサーラさんはスリランカ出身の僧侶だ。この本はご自身の法話をまとめてあるそうで、翻訳ではなく、そのまま日本語で話されたものだ。原始仏教の本場のお坊さんが、日本人とは違う視点で、しかも違和感のない日本語で話したものをそのまま読める。こんなありがたい本はないと思う。


著者は「日本テーラワーダ仏教協会」の長老で、テーラワーダ仏教とはブッダの教えを忠実に伝える仏教なのだそうだ。
以前このブログでもご紹介した『あの世に聞いた、この世のしくみ*1や、小池龍之介さんの本を読んでいたので、仏教にはいろいろあって、日本にあるのは中国経由で入ってきた「死んだら極楽浄土に行ける」大乗仏教だ、ということは何となく理解していた。


が、ブッダの教えは「どう生きるか」が問題なのであり、死んだあとのことはわからない、ときっぱり言われるとびっくりする。確かに、これは心を扱う科学であり、今までの仏教に対するイメージや宗教観は吹っ飛んでしまう。

特に「生きることは苦」という意味をしっかり教えてくれるので、それだけでも生き方が変わると思う。これと、「すべては無常である」ということが少しわかっただけでも、怒りをためこまなくてすむような気がする。


また、心と身体の関係性に対する考え方にも興味深いものがたくさんあった。病気は心がきっかけでなるものだから、体だけを診ても治らないとか、心は全身に影響を及ぼすから、強いて言えばある場所は細胞ひとつひとつの中、など素直にうなずけた。

私たちみんなが出家する必要はないが、こういう方法を知っているだけでも、シンプルに心おだやかに生きていけると思う。興味のある方はぜひ、読んでみてください。


以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。

生きとし生けるものに感謝する(P33)

なぜ、「慈悲」の冥想をするのだと思いますか?「生きとし生けるものが幸せでありますように」と祈るのだと思いますか?
(中略)
我々はすべての生命のおかげで生きているのです。
(中略)
紅茶1杯飲めることも、ひとつの幸福です。それができたのは多くの人のおかげです。皆のおかげでできあがったわけですから、誰かわからない相手に感謝するのではなくて、やっぱり「生きとし生けるものが幸福でありますように」ではないでしょうか。1杯の紅茶を飲んで幸福を感じるなら、その幸福をくれた相手、つまり「生きとし生けるもの」の幸福をお祈りする義務がついてくるのです。それをしなければ、それは「借り」になります。おいしい紅茶を飲んで「神様ありがとうございました」と言ったところで、借りは返せないのです。
お釈迦さまは、はっきりと言っています。「生きとし生けるものが幸せでありますように」と心から祈ることで、自分の借りは全部消えるのだ」と。

ブッダは「心の高め方を教える」(P40)

仏教は「仏陀の教え」です。
(中略)
つまり仏教は宗教、信仰ではなくて「教え」であって、医学、科学、物理学、美術などと同じように、「こういう風に実践すると、こうなりますよ」と方法を教えているのです。

「生きているうえでやること」=「生きること」ではない(P48)

我々が「これが生きることだ」と言っていることは、すべて「生きるために必要な道具」に過ぎません。
(中略)
我々は人間なのに、人格はどうでもいい、人生がどうなっても関係ないという態度で生きているのです。それはものすごくおかしい。「それでは生きている意味がない」とお釈迦さまは言っているのです。人格を磨くこと。心を清らかにすること。あらゆる道具を使って取り組むべき人間の課題は、これに尽きます。そのありさまを「生きる」というのです。
(中略)
大事なのは「生きるということ」で「生きるために必要なこと」は価値がひとつ下なのです。

「生きる目的」を決める(P61)

ウーロン茶を1本買いたい。そこにコンビニエンスストアがある。だったらさっと店へ入って、ウーロン茶を1本買うでしょう。目的がはっきりしているので、このこと自体には何の問題もなく、ちゃんと満足しているはずです。もう少し店にいたかったなあ、あれもこれも全部見ておいた方がよかったのではないか、などと悩むことはないのです。
人生も同じです。すべてにきっちり目的を決めたら、すべきことはちゃんと決まってしまいます。そこですべての悩みは消えるのです。生きる目的がないために、人はいろいろと悩んでいるのです。何をやってもどこかで納得がいかず、自信がなく、うまく行かないのです。

「生きること=苦」を認める(P62)

我々は、生きるということは苦であること、満足は得られないということに納得した方がよいのです。道具だけいくら集めても、きりがありません。そうではなくて生きる苦しみがさらにひどくならないように、小欲知足の法則を実行した方が楽です。世界で一流になろう、人に負けてはいられない、などの無意味な概念を捨て、平和で安心して生きるために、自分が最低限どれくらいの道具が必要かと理解すれば、とても楽になります。

物惜しみの感情は餓鬼道に似ている(P98)

いつも「ああすればよかった、こうすればよかった」と悩んでいる状態なのです。何か「満たされていない」という、強いエネルギーを出しています。そのエネルギーを食べている次元が餓鬼道です。
「食べたい、食べたい。お金が欲しい、欲しい。もっと綺麗になりたい。もっと健康になりたい。もっと、もっと」と思って生きているなら、我々は餓鬼道の次元と似たエネルギーを作っているのです。死ぬ時に「あれをしておけばよかった。これをやっておけばよかった。もっと金を儲けておけばよかった」という満たされない、乾いたエネルギーで死んでしまったら、たとえ阿弥陀様を見たところで、「もっとお寺に行って、ていねいにお詣りした方がよかった」などと思うのです。するともう、餓鬼道の次元に落ちてしまう恐れがあります。

心は身体のどこにある?(P127)

心は「生きる」という機能であって、我々の1個1個の細胞で働いているのです。それでもあえて場所を限定せよというなら、細胞のレベルで生命は活動しているのですから、「心は全身にある」というしかありません。

心は本来、怠け者(P131)

とにかく、心というのはものすごい怠け者なのです。人間の差は、怠け(アーラシヤ)にどのくらい打ち勝ったかによります。どんな人でも勉強はしたくない。それでも我慢して勉強する。そしてよく我慢できた人は成功するし、我慢できなかった人、途中でやめた人は他の方向へ行ってしまいます。
怠けたい心を制して、嫌なこともやる。それで自分が自分に勝ったことになります。それを続けると、その人はプロになって成功するのです。心の本来の姿は怠けることですから、心の本来の姿をぶち壊したところで、何か獲得できるのです。

本来の心を壊す(P131)

心を放っておけば地獄です。心を蹴飛ばして、叩き上げなければ幸福にはなれません。「悟り」というのは、本来の心を完全に壊した状態のことなのです。そこまでいくのは結構むずかしいのですが、普通の社会でも、少しだけ自分の怠けに勝てれば何か得られます。

「善の感情」を育てる(P138)

本来的に生まれてくる感情は不善です。怒りや嫉妬、怠けなど、そのような感情は自然発生的に生まれてきます。それが心の本来の姿なのです。心の本来の姿は、暗くて、怠け者で、悪そのものなのです。
けれど心は、智慧によって努力、精進することで、どんどんきれいになっていきます。どんどんきれいになって、最後に心そのものを壊してしまったところに究極の幸福というものが生まれてきます。それを仏教では「解脱、悟り」といっているのです。

一旦停止で心を育てる(P139)

しゃべりたくなったら一旦停止です。一旦停止して、さあ話そうと決断して、それから話すと一時的な不善の感情はすっと隠れてしまい、活動しなくなります。これは大変厳しい修行です。行動する場合も同じです。何かやりたくなっても、一旦停止。「ちょっと待てよ」と考えてから、行動するようにします。

心の働きはふたつある(P147)

「コントロールできる意識的な心の働き」と「どうにも手に負えない、手の施しようのない無意識の心の働き」です。

「いい結果」を出す(P157)

つまり、いい結果を出せれば自分が幸福になれるのだから、いい結果を出せるように考えて行動すべき、ということです。「結果はさておき、とにかくがんばっているからよいのだ」という「がんばりやさん」は、人間が持っている怠け癖を隠し、ごまかしている場合が多いのです。がんばっているのに幸福になれないなら、自分の心の怠けのせいだと気づかなければなりません。

怠けを精進で消す(P158)

幸福になりたいならば、次のように考えてください。
「自分の心は、生まれつき怠けというウィルスに犯されている。だから自分の心に精進という薬を飲ませてあげなければならないのだ」
精進すると怠けは消えてしまうのです。

心には「怠け」と「精進」というふたつのエネルギーがある(P160)

我々が望む社会的な幸福、仲のよい家庭、経済的にゆとりのある人生、健康な身体、そういったことで成功することは、意志でもって簡単にできるのです。できないとすれば、その理由は、怠けという悪いエネルギー、心の働きを鈍くするエネルギーが働いているからです。
(中略)
このようなふたつの働きが心にあることを憶えておけば、自分の意志でコントロールできますね。怠けるとか努力するとかいうことは、自分の意志でできることなのです。お祈りして得られるものではありません。

「怒り」があれば、幸福はない(P164)

もし、何か自分が偉くなったように感じたり、自分の正確に他人の欠陥ばかり見るような部分があると気がついたら、今すぐに直さなければなりません。すべての不幸がそこから始まるのですから。

怒りの性格は、すぐ直すべき(P166)

方法は簡単です。肩の力を抜けばよいのです。「すべての人は不完全であって、自分も不完全だ。完全なんてありえない」と、おおらかな優しい心で認めてあげるのです。

「嫉妬」=自己破壊(P168)

他人の幸福に嫉妬するのは、あまりにもバカバカしい自己破壊の道です。そうではなくて他人の幸福を自分の幸福に回す(=相手の幸福を心から喜ぶ)ことが幸福の道なのです。

「後悔」は毒(P171)

後悔の感情もまたウイルス、猛毒です。後悔すると毒に侵されてやる気がなくなり、心と身体の活動が止まってしまいます。
(中略)
人間がやることは完璧ではないのですから、後悔しようと思えばいくらでもネタがあるのです。それで我々は、後悔することで怠けるための言い訳を作ったりもするのです。

後悔をやめる(P174)

人間は、後悔さえやめれば幸福になれるのです。後悔しないで、気楽に、明るく過ごせばいいのです。
(中略)
後悔する代わりに、自分のミスを「そうなんですよ」と正直に認められる明るい心を作ることです。それがとても明るい、ポジティブなエネルギーになるのです。

「悪の道」=「不幸になる道」(P175)

4種類の否定的なエネルギー、つまり「怒り ドーサ」「嫉妬 イッサー」「物惜しみ マッチャリヤ」「後悔 クックッチャ」を、仏教では「罪だ」「悪だ」といっています。つまり我々は、知らないうちにいっぱい「悪」を行っているのです。
なぜ犯罪を犯したわけでもないのに、こうした感情を「罪だ」「悪だ」と言うのでしょうか?
それは仏教の悪、罪が「幸福にならない原因」を指しているからです。「そういうことをすると地獄に落ちる」ということでもありません。地獄に落ちるかもしれませんが、そんなことは死んでみないとわかりません。それより「生きているうちに不幸になる道は罪の道、最悪の道」なのです。逆にいえば、「幸福になる道は善の道」です。

比べることで暗い感情が生まれる(P178)

そもそも他人のことなど、どうでもいいでしょうに。幸不幸は自分の心の状態なのですから、他人と比べてわざわざ自分を不幸にするなんて、バカげていると思いませんか?
(中略)
他人と比べるだけのことなのに、結果として自分の幸福が消えてしまうのです。頭が混乱してしまって、混乱した頭で行動した挙げ句に、結果がさらに悪くなってしまうのです。だから仏教は他人と比べることをやめて、心を混乱させずに、落ち着いて行動することを推薦しているのです。

客観的になる(P182)

我々が成長するためには、知識と知恵を持って、客観的にものごとを判断することです。ものごとをよく見て、よく理解する。主観的には見ないことです。それがマーナか(慢、計ること、比べること)と闘う方法なのです。

「法句経」1番と2番でお釈迦さまが言っていること(P185)

「清らかな心があればすべては幸福であって、汚れた心はいっさいの不幸のもとである」

「がんばる」ではなく「しっかりする」(P199)

「がんばりましょう」というのもまったく無意味な言葉です。
そうではなくて、仏教では「しっかりしましょう」と言います。「がんばることは悪いことです」とは言いにくいのですが、あまりにも大ざっぱでいい加減で、いくらがんばっても満足が得られないことになります。「何をがんばるのか」「何のためにがんばるのか」「どこまでがんばるのか」というところまで明確にしたいので、仏教では「しっかりしましょう」と言うのです。

「理解する」ことで無知にならないようにする(P202)

結局、自分の気持ちに正直なのも、自分の気持ちを抑え込むのも、どちらも問題だということです。
我々には他に方法はないのでしょうか?「もうひとつの道」はないのでしょうか?
それは「理解する」ことです。
心に欲、貪りが生まれたら、何も見えなくなって失敗してしまいます。腹が立ったら右も左もわからないでしょう?これが無知です。無知は「智慧がない」ということで、病気といってもよい代物です。
そこで欲や怒りが生まれた瞬間に、「これは欲だ」「これは怒りだ」と気づき(サティ)をいれて、無知にならないようにするのです。

自分を不幸にする方向にだけ、集中力がある(P208)

こういうことを理解して欲しいのです。「我々は、自分を不幸にする方向には集中力があるのだ」と。酒に溺れることは簡単ですが、酒をやめることは簡単ではありません。タバコに依存することは簡単ですが、禁煙はむずかしい。

泣きながらでも善いことをしなさい(P220)

残念ながら、人間はもともと慈しみの気持ちをもっていません。他人のことが嫌いなのです。
しかし、他人を嫌うと自分も嫌われて、自分の幸福が消えてしまいます。「孤立無援で私だけ幸福」ということはありえないのですから、当然です。だから我々は涙を流しながらでも、慈しみの心を育てるべきなのです。お釈迦さまは、「泣きながらでも、善いことをしなさい。悪いことをやめなさい」と言っています。

「あと」ではなく「今」体験する(P236)

「あとでやります」という考え方は、結局、「あとでもやらない」考え方です。それは心の思考パターンのひとつですが、やるべきことは、今すぐやらなくてはならないのです。「今すぐやらなくては」という気持ちでやらないと、なかなか結果が出てこないのです。瞑想をしたら、今の瞬間に「落ち着き」を体験しなくてはいけません。その瞬間瞬間に、落ち着き、悩まない心、困らない心、それを体験していくと、すべてが無常であることが理解できるようになってくるのです。

「もうちょっと」を求める病んだ心(P242)

何につけても、「完璧」ということはありません。美しさで完璧になることも、健康で完璧になることも、長生きで完璧になることもできません。
(中略)
つまり「完璧」という概念自体が、曖昧で非科学的なのです。何もかも常に変化しているのだから当たり前です。「もっと、もっと」と完璧を求めても、幸福になれるわけがありません。
(中略)
人間は、苦しみにしがみついて生きているのです。幸福を全く見ようとはせず、心はいつも「もうちょっとあればいい」と、何かを望んでいるのです。

先に結果を考える(P262)

何かを考えている時、それを口に出す時、あるいは身体を使って何かをする時、「結果はどうなるのか」と、ちょっと考えてからやってみてほしいのです。そのように自分の行為の結果を考えてから行為を行うことは、ひとつの修行です。「自分がやっていることの結果は自分に返ってくるのだから、自分で責任を持つべきだ」という単純な理屈ですが、これも因果説ですね。

原因も結果も無常だとわかると怒りが消える(P268)

悪口を聞いて心の中に怒りが現れたら、悪口が原因で結果が怒りです。
(中略)
(原因である悪口の)音は、瞬滅していくものであり、ほんの一瞬しか存在しません。自分はそれをほんの一瞬聞いているだけです。音を聞いた結果として現れた怒りも無常です。すぐに消えてなくなる無常な音を聞いて生じる怒りも無常であり、永久に続くものではありません。
(中略)
簡単に言えば、「心に現れた怒りも無常だと思いなさい」ということです。何かを見た時、何か音を聞いた時、何か匂いを嗅いだ時、何かを味わった時、何かに触れた時、何かを考えた時、これら6つのどの感覚も、その対象は無常であって、一瞬しか存在しないものだから、心の中で現れた怒りも、一瞬しか存在しないものだと思うことです。そうすれば怒りはなくなります。

怒りはすぐになくす(P270)

怒りを原因として出てくる結果は、決してよい結果にはなりません。修行にとってもよくないし、精神的な成長にとってもよくありません。そのことをきちんと理解すべきです。ですから怒りが現れたら、すぐに「何かを見た、聞いた結果として怒りが現れた」というところで止めなければならないのです。

*1:先ほど著者・雲黒斎さんのブログを確認に行ったところ、なんとこのスマナサーラ長老の本を参考にされていたそうです。知りませんでした