先に読んだ『考える技術・書く技術』が面白かったので、続編のこちらも読んでみた。ひとことで言えば応用編だが、前著以上に深い、襟を正したくなるような本だった。絶版だそうだが*1、非常に残念だ。
この本の初版は1979年、今から30年ほど前だが、冒頭に書いてある世の中に対する苦言が今とほとんど変わっていないのに驚いた*2。
それが第1章で、2章以降も今は役に立たないな、と思うのは原稿用紙の書き方くらいだろうか。“書くこと”に対する考え方や姿勢に時代は関係なく、普遍的なものなのかもしれない。
特に後半の「心がけ」や「態度と責任」などは単なるハウツーものでは読めない書く時の指針、常に心にとどめておきたい素晴らしい内容だ。
といっても精神論だけではなく、この本でも著者がふだんやっている具体的な方法が豊富に紹介されている。「カードとり」という作業を前著で紹介していたが、この本ではそれをさらに進めてそこから文章を作っていくやり方も教えてくれる。
著者はカードの段階でしっかり推敲を重ねていたので、原稿用紙を書き損じることはなかったという。今はパソコンがあるから、と画面で試行錯誤するのが当たり前になっているが、頭の整理にはカードなど紙でやるのもよさそうだ。
もちろん、文章を書く時のコツも“30−3−30”など(内容は下のメモをご覧ください)はじめて見るものがいろいろとあった。やはり英語圏にいた人なので、欧米でのやり方なども取り入れているのが新鮮にうつるのだろう。長かったのでメモには載せていないが、コラムの書き方も練習方法がくわしく載っていた。この通りに練習すれば、ある程度求められる長さ*3の文章を書く力がつくはずだ。
さらに、時間管理法も章のひとつをあてて書かれているが、個人的にはこの章が非常に役に立った。やり方は非常にシンプルで、パレートの法則*4をスケジュールに応用するだけなのだが、これがまさにコロンブスの卵で、「この手があったか」と思った。
きちんとした文章を書きたい人、知的生産性を上げたい人にぜひ読んでほしい本。ぜひ復刻を希望します*5。
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以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。
書けばカラクリが見えてくる(P28)
書くことのもうひとつのメリットは、他の人の書いたもののカラクリが見えてくることだ。マスコミのあの手この手が、次第にわかってくるようになる。つまり、実験動物のように簡単に刺激に反応するようなことがなくなってくるようになる。その意味でも、自分の中に抵抗力を養うために、書くようなことは大切なことなのだ。
EPS(P35)
ローエンスタインとメリル共著の『Media, Messages and Men』に、すべてのメディアはEPSという段階で発達するという説がある。Eはエリート(Elite)、Pはポピュラー(Popular)、Sはスペシャライズド(Specialized)の頭文字。
まず、最初の段階は限られたエリートの時代である。ごく少数のエリートが、本でもTVセットでも買うことができて、それに親しむ。やがて第2の段階になると、そういうものが一般化する。本の場合だと、教会が一般化の役割を果たし、ついで中産階級の小説がセルバンテスから始まって一般に広まった。あれがPの段階である。
第3の段階では、特殊な興味を持つ人々のためにメディアは分化する。現在のラジオがそうで、ラジオは一般聴衆を対象にせず、年齢や趣味・教養などそれぞれ違った層の興味に応じて分化している。雑誌もSの段階に入ったらしく、総合雑誌が売れなくなり、旅行・スポーツ・健康・料理…音楽など、多種多様の分野の雑誌が売れ始めた。年齢層でも若い女性・若い主婦という風に限られた層を対象とした雑誌が次々に現れてきた。
3段階法(P40)
まず第1は、一生かかって何かやってみたいと思う目的を作る。つまり定年になって現在の仕事から離れても、ずっと続けていってやりとげたいこと。
(中略)
第2は、今から5年か6年のうちに実現したいこと、という目標を作る。本を1冊書こうというような仕事は、この第2の分類に入る。
第3は、これから6ヶ月しか命がないとしたら、どれだけのことをやっておきたいかを考えて、目的を決める。つまり、長距離・中距離・短距離の3つの目的を具体的に決めるわけである。
その上で、その日その日の仕事を、「あ、これは長距離の部類だ」とか「これは短距離用だ」とか考えながら進めていく。
(中略)
こういう(=“距離”に沿ったテーマごとの)収集には、カードを使うことが多くなるが、長距離用には白いカード、短距離用には赤いカードと色分けし、中距離用にはほかの色のカードを使うという風にしている。
3段階法で生活を見直す(P43)
3段階法の利点は、小説を読んでいても雑誌を拾い読みしても、いくつもの分野の情報を収集できることだ。もし中距離用の目的しか持っていないと、それ用の収集しかできないが、3段階法をとれば、多種多様の情報を平行して集められる。それは、いろいろな角度からものを眺めることにもなる。
(中略)
そういう小さな問題だけではない。自分の生活を3段階法で見直せば、たいていの人が、いかに目先のことにとらわれて生きているかに気がつくはずである。あるいは、見当ちがいの目的のために時間を浪費しているかがわかるはずである。そして、情報洪水の中で、いかに重要な情報を取り逃がし、つまらない情報にとらわれているかも、わかってくるものである。そういう意味でも、3段階法は情報不足の状態から脱出する良薬だと私は思っている。
(中略)
要は、「変だ」「面白い」と感じたことを、その場限りで忘れないで、しつこく後で調べ直し考え直しををする習慣をつけることだ。大半の疑問は、事典類で解決するものだが調べてみてもわからない問題が残る。それが、少しずつ解決するとともに、新たな問題が出てきて、常時100ぐらいたまっている。そういう状態がもっとも望ましい。
自分の情報網を作る重要性(P44)
情報化社会では、情報がドッと押し寄せるために、受け手は刺激に対して鈍感になる。と、マスコミは、ますます刺激の強い表現で迫ってくる。そういう悪循環のために、われわれは「変だ」「面白い」と感じても、それをどんどん忘れ去る習慣を身につけるようになっている。別に3段階法でなくてもよいのだが、そういう中から抜け出すために、自分の情報網を作り上げることが必要なのだ。それは専門バカに陥らないために、誰にも必要なことなのではなかろうか。
拡散と集中(P45)
新聞や雑誌を切り抜いたりカードをとったりするのは、拡散の段階のことで、そのうちいくつかずつ自然に集中の段階に移るものができはじめるものだ。それが3つのタイプ(短距離・中距離・長距離)に分かれることは、すでに述べたとおりだが、その段階になれば漫然と切り抜きをやっているだけでは済まなくなる。関係のある本を買い入れたり、古い雑誌のバックナンバーから論文や記事を見つけたりして、まとめにはいるわけだ。100くらいの手持ちの問題の中で、いつくかは、そういう集中の段階にある、というのが普通の状態である。したがって、拡散と集中は、たえず平行しながら行われる。これが集中ばかりになると専門バカになっていくし、拡散ばかりだと物知りバカで終わるわけである。
疲れた時に捨てる(P55)
捨てるコツとしては疲れた時を選んで点検をすること。疲れた時の利用法はいろいろあるが、大胆になるのかものぐさになるのか、とにかく思い切って捨てる気になるものである。
資料探しに手間取るのは、ほとんどの場合「分け過ぎ」が原因(P57)
分けすぎも「整理が悪い」うちに入るわけである。
(中略)
けれども、常に警戒しているのは、分類を多くしないことである。時間と労力を要領よく使うためには、大まかな分類ということを忘れてはならない。コンピューターが発達し一般化して以来、細かな分類を立てることが科学的と信じる人が増えてきたが、個人個人の知的活動では大福帳か「どんぶり勘定」の法がプラクティカルなのである。
ファイルは自然に「分家」させる(P57)
「太ったファイルは、仕事の友だち」という言葉を、アメリカのビジネスの心得に書いた人がいる。私自身も、アメリカのことを、いろいろ話題を取り上げて書くことがあるが、はじめはアメリカの森羅万象を「アメリカ77」などとして、その年の分の切り抜きをファイルする。そのフォルダーが5センチくらいになると、たいていいくつかの話題についてそれぞれ5枚とか10枚の資料がたまってくる。その時に、はじめて「語学教育」とか「エチケット」「カーター」などと、のれん分けをして別なファイルを作る。残ったものはあいかわらず、「アメリカ77」の太ったファイルの中にプールしておくわけだ。
のれん分けをして分家になったファイルには、本を読んだり雑誌を探したりして、肉付けをする。だから、50も100も問題を抱えていても、はじめから頭の中で問題を作ったものはまったくと言ってよいほどなく、分家したファイルが、それぞれに育ったもので、いわば自然発生的に広がったものだ。そのうち、たえずいくつかがまとまりかけた状態になっていて、それがコラムになったり随筆や論文に育っていく。
集中という言葉を使えば、太ったファイルは拡散の段階にあるので、分家したファイルは集中を始めたファイルになる。
「使用済みファイル」も作っておく(P59)
目的はふたつある。考えをまとめて発表したあとにも、追跡調査をする必要があることがその1。同じ資料を二重使用しないことがその2である。
我々が何かを書いて発表したら、自分の書いたものに対して責任がある。発表したあとで、新しい事実などが出てきて、いつか増補・訂正しなければならなくなることがある。その時、ファイル別にしておいて、たえずアップトゥデートにしていれば、仕事が大変楽になる。次に、資料をバラバラにしてしまうと、間違って2度重ねて使う恐れがある。同じ材料を2度使うことは必ずしも悪くない。けれども、できるなら避けた方がよい。もし、何かの都合で、カードを元の引き出しに戻さねばならなくなった時は、カードに赤いペンで「……使用済み」と書き込んでおくようにした方がよい。
切り抜きにはスチール製の物差しがよい(P61)
破りとった新聞紙などを切りそろえる時も含めて、切り抜きを行う際、スチールの物差しを使うと、仕事のスピードアップができる。
(中略)
何種類かの物差しを買って実験。結果は、スチールの薄い物差しで、両側の刃に当たる部分が、丸くなっていないもの、つまり裁断されたまま鋭い角になっているものが最上という結果になった。建築設計などの製図用品を売っている店で買ったものが一番よさそうに思う。特に新聞の記事を大きく切り抜く時など、ハサミよりずっと早く切ることができるので、それ以降は、いっさい、物差しでいくことにした。週刊誌など綴じ目にハサミを入れるのはむずかしいものだが、物差しだとサーッと切り取ることができる。
未完成の効用(P68)
…われわれの心理的なクセとして、ファイルをしてしまうと安心して気のゆるみが出てくることだ。本来ならその時から知的活動が始まるのだが、どういうわけか満足感が強くなって、仕事が中断しがちになる。特に分類をこまかにして、整然とファイルをしてしまった時に、そういう状態になることが多い。太ったファイルで、まだ未整理のままに置いておく方がよいのは、そういう心理状態を避けることにもなるからだ。
語学の勉強をしている時、ていねいに単語カードを作ったら、何となく疲れが出てカードを使わないでしまった、という経験者は多いと思う。それと同じことが情報整理の場合にも起こるのだ。ひまな時に、たえず引っ張り出して、何となくバラバラとめくるだけでも情報は死ななくなるのだから、手元に置いて活火山のようにしておくべきである。
また、集まった情報は、要するにインキのついた紙キレの山に過ぎない。人間の知的活動の補助的な道具でしかありえない。大事なのは頭の整理であって、情報の整理は、あくまで頭の整理のための準備体操である。情報のとりこにならないためには、整理に気を奪われないことが大切である。
原稿書きは、人に道順を教える心がけでやれ(P104)
どうやら、迷う場合にはふたつの型があるようだ。「僕んとこは、ちょっと道順がこみ入っていて、はじめての人にはわかりにくいんだけど」というタイプと、「駅から10分くらいで、簡単に来られるから」というタイプの中に、人を迷わせる人が多い。「わかりにくい」と暗示をかけられると、どうせ聞いてもダメだろうから、駅で降りてから誰かに聞こう、ということになるし、10分というと相当な道のりになるのに、簡単だというのは、自分が365日歩いているから簡単になっているので、はじめての人には簡単ではないことを忘れている人に多いものである。
文章も同じことで、はじめからむずかしいと暗示にかければ、そこで読む人に拒絶反応が生まれて、わかりやすい内容までむずかしくしてしまう。これでは、相手の鼻先で戸をピシャンと閉めてしまうようなものだ。
アメリカで何十冊となく出ているハウツーライトの本の、ほとんどすべてが文章の書き出しに注意するように書いているのは、むずかしくないという親しみの印象を読む人に持たせるように教えているのだ。
3つに分ける「原則」(P109)
扇谷正造の『現代文の書き方』によれば、講演の場合も「本日の、私の講演では大切なことが3つあります」という風に、3つという数字を使うと、聴衆がよくわかってくれる、とも言っている。
(中略)
これは講演だけでなく、何かものを書く時に箇条書きを3つに限るという風に利用できる。われわれは原稿の準備をする時に箇条書きをするが、その際に5つも6つも書きたい項目があったら、これを3つに減らすように努力する必要がある。
(中略)
3分節の方法は、文を書く上の鉄則であるから、どんな短い文の場合もメモを作ってみて3つからはみ出さないようにする。…読みやすくわかりやすい文を書くためには、たえず頭に置いておく必要がある。
読みやすくわかりやすい文章は(P113)
一種のパンチに欠けているのではないか、という結論に達した。
むずかしい言葉と話し言葉を交互に使う(P123)
…丸山真男の文章には、時々「一言でいうと実もふたもないことになってしまうが」とか「たわいもなく『欧化』の怒濤に呑み込まれる」という風な、話し言葉がむずかしい漢語の間に現れることがある。
(中略)
先年、同教授に、なぜあのような口語が出てくるのか質問してみた。答は「ハイデッガーです」だった。ハイデッガーの文章には、むずかしい術語に混じって、日常身辺に使われる卑俗な言葉が出てくる。それをまねしたとのことであった。それ以後、気をつけて読むとなるほど俗語というか話し言葉の調子が、しばしば論文調の文の中に織り込んである。難解な内容の文が少なくない著者なのだが、そのような試みが、文章の調子をやわらげ読みやすくするためになされていることを知った。
臨場感を持たせる(P125)
視覚化ということは、しばしば臨場感という言葉で説明されることもある。アメリカのジャーナリズムでひとつの標準とされている『タイム』誌の英語では「事件を、目の前に見ているような調子で書く」ということを、もっとも心得としている。読者に現場に居合わせているような感じを持たせるためだという。つまり臨場感である。『タイム』を読むと、たいていの記事が、周囲の風景とか人々の動きなどの具体的な描写から始まっている。最近は多少マンネリズムになっているけれども、もし同じ事件を『ニューヨーク・タイムズ』と『タイム』の記事で比べてみると、『ニューヨーク・タイムズ』は、簡潔でムダがなく、『タイム』は物語調で臨場感に富んでいる。
30−3−30とは(P127)
30秒・3分・30分のことである。最初の30秒は、それだけしか文章を読んでくれない読者が多くいるという意味。したがって30秒の間に何かを読者の頭に植えつける努力をしなければならない。次の3分は、3分くらい文章につき合ってくれる読者のこと、小さなパンフレットくらいの長さなら、さっと読んでくれる読者である。最後の30分は、相当な時間を割いてくれる読者。これは、ていねいに細かいところまで読む人たちだ。たとえば、新聞なら見出しだけを読む人が30、次の3はリードを読んでくれる人、最後の30が記事をみんな読む人たちだ。
本で言えば、表紙や題・目次などを見る人が30、見出しや書き出しの部分を読む人が3、何ページが読み進む人が30というわけである。
(中略)
…文を書く時も、やはり30−3−30を考えて筆を進める必要がある。何とかして30を3に、3を30にしようと努力することも大事だが、書く内容を「これは3だ」「これは30分だ」という風に分けて、内容に応じて書き分けるようにするべきだ。1ページか2ページのコラムに、盛りだくさんの内容を詰め込んでもゴテゴテした印象を読者に与えるばかりだし、わずかに量にしかならないものを水増しして引きのばしたら、間の抜けた文ができあがる。
読者が求めるもの(P130)
読む人は、事実の面白さ、解釈(筆者の意見)の面白さ、文体(話術)の面白さの3つのどれか、あるいは3つとも求める。
文章を書く練習法について、私の実行していること(P132)
まず、名文を読むこと。何十何百とある本の中から、自分の好きな本を何冊か選んで機会があるごとに読む。古今の名著であってもよいし、ジャーナリスティックな文章でもよい。また、好きな本をどんどん取りかえてもかまわない。要するに何回もくり返して読むことである。
(中略)
昔、伊藤整が小説作法の本を書いて、その中で梶井基次郎が志賀直哉の小説を一字一字原稿用紙に写して、小説書きの検証をしたという逸話を紹介したことがある。不思議なことだが、本を読みながらカードとりをする時、原文を写しとる時に著者の苦労にハッと気がつくことがある。現代は筆写しないでコピーを作る習慣が一般化しているけれども、気に入った文章はノートに写しとるなりして、勉強することも大切だ。
次に、翻訳をやってみることもよい練習になる。英字新聞できれば『ニューヨーク・タイムズ』の記事を、読みやすい日本文に直してみる。ついで『タイム』『ニューズウィーク』も稽古台にする。慣れてきたら、定評のある学者の文章もやってみるとよい。
(中略)
翻訳をする時、はじめは正確さを心がけるようにするが、少し進歩したら、原文のフィーリングを日本文に移しかえる練習に入る。意訳でもよいから、原文の感じを出せるようにしなければ、厳密な意味でも翻訳にはならないのだ。
英語でなくともよい。日本の古典を読める口語文に直す練習もけっこう役立つものだ。この場合も、原文の感じを移しかえることを忘れてはならない。
読書にも使える「パレートの法則」(P141)
読む方も、何十冊読破などというのは、あまり意味がない。大事な20%を徹底的に読むだけでよい。あとはパラパラとめくって拾い読みをする。時間がない時は、パラパラも不必要。そのかわり、必要な本は、どんなに読みづらく退屈な本でも、忍耐強く読み通さねばならない。たぶん、読書家と言われる人は、無意識のうちにパレートの法則を実行している人ではなかろうか。
プライムタイム(P148)
人間の頭は、のべつ働くのではなくて、1日のうちにも起伏がある。このうち最高潮の数時間がプライムタイムである。いわゆる朝型とか夜型というのは、プライムタイムが朝だったり夜だったりするのを、そう呼んでいるのであろう。普通は、朝の数時間というタイプの人が多いらしい。私の場合は夜の11時から数時間がプライムタイムだ。だからこの時間に、一番むずかしい仕事をぶっつける。そして、他の時間には頭をあまり使わないでよいような仕事を振り向ける。と、仕事のペースを作るようにしている。
たとえば、カードを使って、ひとつのまとまった章の構造を作り上げる仕事は、プライムタイムでないと絶対にできない。反対にコラムのような短いものを書くのはプライムタイムを避けた方がよい。むしろ頭の疲れている時の方が、細かなことを捨てて、あらすじだけを書くようになるからだ。
(中略)
読書も同じことで、プライムタイムに読む本は、一字一句ゆるがせにできない本、そうでない時は、全体をぱっとつかめばよいような本、という風に区別して読むと効率が高くなる。
また、同じ本でも、こういう風な方法で、違った読み方ができる。
時間の使い方を検証する(P151)
私は毎月の終わりに、1ヶ月間にどれだけ仕事をしたか、他にやりようがあったのではないかという検討の時間を作っている。1時間か2時間でよいのだが、買い入れた本、読んだ本や雑誌の量、書いた原稿の枚数など手控えのノートを見ながら反省してみる。そして、それがパレートの法則に合っているかどうかを考える。
その際、もっともいけないのは、あの時こうすればよかったと悔やむこと。これは、時間のムダになるだけではなく、進行中の仕事にブレーキをかけるのみである。必ず、「今後こうすることにしよう」と、建設的に考えねばならない。
時間を作る(P152)
人に待たされるのは、あまりありがたいものではないのだが、やる仕事を準備しておけば、ムダになることはない。ポケットにカードを入れておいて気のついたことを書きつけることもできるし、仕事の進行について検討することも可能だ。どうせ待ち時間などというものは長いものではない。本など読むよりは、カード相手に考え事をした方がよい。
したがって、私は約束した時間より少し早めに出かけていって、積極的に待ち時間を作るようにしている。時間に遅れないというメリットがある上に、効率の高い時間を作ることにもなるのだから。
時間にあまり神経質になってはいけない(P153)
たとえば1日のスケジュールを立てる時、学校の時間割のように小刻みにするのは、好ましくない。その日のうちにやりたいことで、もっとも重要なものに、たっぷり2、3時間の予定をとる方が、長い目から見ればずっと効果が上がるものなのだ。そして、これはパレートの法則にも合ったやり方だ。また、仕事と仕事の合間に、休息の時間を設けることも望ましい。
(中略)
要するに、スケジュールを2時間きざみか3時間きざみにして間に休息時間を入れた方が、仕事はずっとはかどるということである。
思想は「楷書」で書くべきだ(P168)
前に原稿の文字を楷書で書くようにと書いたが、それは誰が読んでも誤読誤解をしないためであった。同じような意味で、文も自分の考え感じることを過不足なく読む人に伝える努力をわれわれは怠ってはならない。
内容が複雑で読みにくくなるのは、仕方がない。そういう場合もないではない。また、微妙の心理のアヤを表現するために、難解な文を書かねばならないこともある。特に文学作品には、そういう例が多い。けれども、われわれが普通の文章を書く時は、常に正確で明晰な文を書くように心がけるべきなのだ。
文章をわかりやすく書くために、福沢諭吉が心がけたこと(P169)
教育のない百姓町人にもわかる文、あるいは文字を知らないお手伝いさんが、隣の部屋で聞いても理解できる文章を福沢は目的とする。そのため、あまり字を知らない婦人や子どもに原稿を読ませて、その読めないところをやさしく書き直した(『福沢諭吉全集』緒言を著者が口語訳したもの)。それだけの努力をしたからこそ、『学問のすすめ』などがベストセラーになり、日本の近代化に大きな功績を残したのだ。
福沢は、ある時尾崎行雄に対して、「猿を相手に書け。俺は猿に読ませるつもりで書くが、それでちょうど世に当てはまるのだ」と語ったともいう(『尾崎咢堂全集』7巻)。漢語やむずかしい術語を使って書くのは、慣れればそれほどむずかしいものではない。それよりも、まったく予備知識のない人にわからせるようにやさしい言葉で書く方が、実は大変にむずかしいことなのだ。