毎日「ゴキゲン♪」の法則

自分を成長させる読書日記。今の関心は習慣化、生産性、手帳・ノート術です。

東大生は湯飲み茶碗である☆☆☆☆

※文庫版あり『東大生はバカになったか (文春文庫)
自らも東大出身であるジャーナリスト・立花隆さんが、東大で教えた時の経験を元にまとめた本。
私は佐藤優さんの『読書の技法』で引用されていた、「テクネーとエピステーメー」のくだりが読みたかっただけなのだが、内容があまりに面白くて全部読んでしまった。


著者の見解によれば、今の頭のよさと教養の深さは全く別だという。「教養が深い、考える能力がある」という意味では、東大生は残念ながら頭がいいとは言えないそうだ。
なぜなら、今の受験がそういう能力を高める仕組みになっていないからだ。
今の受験は「効率よく早く正解にたどり着く」「必要とされる答を暗記する」能力を求めている。
著者は何回か東大生に教える機会を持ったそうだが、時代があとになればなるほど著者の考える「頭のよさ」は落ちていったという。
実際に試験問題(自由記述)の解答の例がいくつか出てくるが、これが本当に最高学府・東大の学生の書いた文章か、とあっけにとられるレベルなのだ。


なぜ著者が東大について書くかといえば、それは東大が日本の教育システムの基準だからだ。東大の状況が悪くなっていれば、それは日本全国の大学が同様に、またはそれ以上にひどくなっていることがわかる。

読めば読むほど暗澹たる気持ちになった。しかも、この本は10年以上も前に出た本なのだ。さらにひどくなっていることは容易に想像できる。
政府や文部科学省が右往左往しているが、何を「頭のよさ」と考えるのか、どうすれば求める「頭のよさ」に到達できる教育ができるのか、そこをまずはっきりさせないと、おそらくこれからますますひどくなる一方だろう。


“東大法学部は「湯呑み」を量産している”というのはある章のタイトルだが、これは終戦後、アメリカが東大を視察した時の報告書の内容
「日本の大学の学生は教室の座席にずっとおかれた「湯飲み」のようなものであり、教師は「土瓶」から知識を「湯飲み」につぎつきに、その容量を無視して注いでいるようなものだ。」
による。


さて、後半では「じゃあ本当の教養とは何か」という話にようやくなる。
自分の知識の偏りを知り、どこを強化すればまんべんなく知識が得られるのか、という話は大きなヒントになった。思いつくままずるずると芋づる式に本を読んでいるだけではだめなのだ、と思った。下のメモにあるが、大きな書店のすべての本棚を何日かかけて見て回れば、今の自分の知識が全体のどの程度のものかわかるそうで、学生にも勧めていたそうだ。
自分に残された時間も考えないと、知識の海はもっと広くて深いのだ。


以前ある人がテレビ番組で「子どもにはどこでもいいから海外の大学に行け、と言った。日本の大学に行くなら学費は出さない。海外なら好きなところを選んでいいし、学費・生活費は面倒を見る」と話しているのを聞いて何と極端な、と思ったことがある。
だが、この本を読んだらそれが極論ではないと思ってしまった。

これから大学に行く人や、その年齢のお子さんを持つ方は、ぜひ一度読んでみてください。
知識や教養をきちんと身につけたい人にとっても、ヒントになる本です。
私のアクション:丸善ジュンク堂書店に行って、書棚を眺めてみる
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以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。

社会のあらゆる現場は、ゼネラルな知が求められる(P52)

どういう問題でも、その問題の全体像をとらえ、今何が必要で、それは誰がどう役割分担すればいいかを考えるマネジメントが的確にできるゼネラリストが必要なんです。問題解決に参加する専門家も専門領域をこえた目が持てるゼネラルなスペシャリストが必要なんです。

千文字、250句がひとつの基準(P230)

…どんな分野でも、専門用語として千ターム、命題となった基本概念が2、3百わかれば、たいていのことがわかったといえる。

現代の能力面での教養とは(P230)

1.「論を立てる能力」
それからその系列として「誤った議論を見抜く能力」そして「人を説得する能力」。論を立てる能力の中には、「論理力と表現力」が入る。誤った議論を見抜く能力は、同時に「誤った議論に反駁する能力」でもなければならない。
2.「計画を立てる能力」「計画を遂行する能力」「計画遂行のために他人をオーガナイズする能力」
…目的を達成するためには、ある人数が集まってチームを作らないとやっていけないから「チームを作る能力」「チームを動かす能力」が大事
3.「情報を収集する能力」「情報を評価する能力」「情報を利用・応用する能力」
広い意味の理論能力と、二番目の計算能力、三番目の情報能力が、社会に出る前に基本的に身につけるべき3つの知的技能ということになります。

問題を発見する能力を身につけることが教養の最終目的(P232)

カルチャーの語源(P246)

キュルチュールあるいはカルチャーというのは、キュルチベ、カルティベート(耕作する)を語源にしているわけですが、それは頭を耕作することによって、その人の頭の中にあるポテンシャルな能力を発現させること、そのこと自体が教養だということです。

「知識マップ」を作る(P261)

このような系統図(知識のマップ)があってはじめて、人は自分の持っている知識(現在持っている知識とこれから持とうとしている知識を合わせて)の総点検をすることができます。教養の基本が現代社会の知の世界の概略をつかむことにあるなら、まず、このような知の世界の全体像を示すマップを手に入れる、あるいは自分で作ってみることが必要です。

どんなマップを作るか(P264)

…自分がこれからたどる積もりのルートマップ、あるいは征服するつもりの領域マップという意味合いのマップを作るといいと思います。…いかなる人も、人知のすべてをきわめることはできません。万感の書を読みつくすことはできません。限られた時間(生涯という意味でも、とりあえず利用可能な近未来、あるいは中期未来の時間という意味でも)の範囲内で、残り時間を常にチェックしながら、パフォーマンス(成果)を最大に上げられるように計画を作成することが大事です。

図書館の棚をマップとして利用する(P264)

…目的にそって個人的マップを作る時に、その情報源として、あるいは常にクロスチェックする参照源として、他者が作成した、客観的な全体像を示したマップが必要になります。…手近なところでは大きな図書館の図書目録(あるいは開架式の書棚それ自体)とか、巨大書店の書棚そのものにあります。

テクネーとエピステーメー(P274)

教養学部を欧米ではアーツ・アンド・サイエンシーズといいますが、これはもともとギリシア語から来たテクネーとエピステーメーを英語に翻訳するとそうなることに由来します。
エピステーメーは…これが英語のサイエンスの語源で、要するに知識です。それに対してテクネーは、技術です。テクノロジーの語源です。…日本語としてはむしろ、技といった方がいいかもしれません。

テクネーとエピステーメーの違い(P275)

知識が頭で覚えるものであるのに対し、テクネーは体に覚えこませるものです。知識は講壇講義で教えられますが、テクネーは講義だけでは教えられません。実習が必要です。実習を繰り返して体に覚え組ませることが必要です。