毎日「ゴキゲン♪」の法則

自分を成長させる読書日記。今の関心は習慣化、生産性、手帳・ノート術です。

無常に寄り添って生きる☆☆☆

玄侑宗久さんは、震災に遭ったあと、「方丈記」を読み返してみたという。世の中は無常なものなのだから、と遁世し可動式の庵「方丈庵」に住んだ鴨長明の考え方に、大いに共感するところがあったそうだ。

私は関西なので東日本大震災の影響は直接受けていないが、不思議に3.11以降、ものへの執着がなくなった。しかも、“ものを減らしていつでも避難できるようにしておきたい”と強く思うようになった。私も「方丈記」に共鳴しているのかも、と思い玄侑さん訳の方丈記を読んでみることにした。


◆目次◆
はじめに 震災後に読む「方丈記
無常という力
1 無常を生きる
2 天災と人災の果てに
3 人はこの世に仮住まいをしている
4 「賢き御世」でない時代
5 数えきれない死体の中で
6 大地震で人間は変わったか?
7 どこに住めばいいのだろう
8 五畳あまりの小世界
9 ものうしとても、心を動かす事なし
10 揺らぎつづけろ
11 手作りの、小さな自治のために
方丈記関係地図
玄侑宗久監訳「方丈記」現代語訳
鴨長明方丈記」原文
むすびに代えて 無常なるフクシマの未来へ

方丈記」と言えば、学生時代に暗記させられた「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。」という冒頭を覚えている人も多いだろう。だが、内容を通して知っている人は少ないのではないだろうか。
この世は無常だ、と鴨長明が思うに至ったのは、当時が天変地異の非常に多い時代だったことも大きいらしい。驚いたことに、地震津波もくわしく記述されているのだ。
他にも飢饉や大火事などが頻発し、名家の出でありながら不運によって没落してしまった鴨長明は、強く無常を感じながら一生を送る。
簡単に言えば、なぜ無常を感じるようになったのかという鴨長明の人生と、じゃあ無常の世をどんな風に生きているのかを綴ったものが「方丈記」である。

 

その内容を、玄侑さんが生き生きと蘇らせたのがこの本だ。前半は、「方丈記」から多数引用しながら、震災後の被災地に生きる人たちの心のよりどころを探していく。
後半に、「方丈記の」現代語訳と原文が載せられている。薄い本だが、静かに心を揺り動かされる。

 

玄侑さんのまえがきの言葉に、「無常」のとらえ方が書いてあった。

無常とは、決して静的な諦念であるだけではなく、ある種の安定を崩し、当座のバランスは失っても、一歩を踏み出す積極的な行動のことでもある(P3)。

私は当事者ではないので、この本をすべて東北やフクシマのことと結びつけて読むのはむずかしい。だが、被災地やそれに直接関わる以外の人にとっても、この本を通して無常を理解することで、心の持ち方が変わったり、少し前向きになれる本だと思う。
心のよりどころがない、何もかもむなしい、と感じた時、手に取ってみてください。
私のアクション:自分でどうしようもない出来事にあったら、「風流だなぁ」とつぶやいてみる
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以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。※メモに関してこちらをご覧ください。

「ものうしとても、心を動かすことなし」(P51)

やる気が起きなくても、悩むことはない。

「三界はただ心一つなり」(P53)

これは『華厳経』の「三界唯一心 心外無別法」という言葉から来ています。心一つで、世界のあり方が変わるというわけです。心の他に法はない。
(中略)
唯識無境」という言葉があります。識というのは、われわれの無意識も含めた心のこと。境というのは環境とか外界といった意味です。唯識無境、すなわち心だけが問題で、外界は関係ない。われわれは、とにかく心をコントロールしなくてはいけない。物事が、自分の都合に合っても合わなくても、そのまま受け容れていく。予想と違うことが起きたからといって、動揺してはいけない。また、自分の好みで認識してはいけない。自分の都合で、無常の世なのに、無常ではないと思いたがってはいけない。

執着すれば、心は濁る(P54)

自分が感知しえないもののために、うんざりするのは仕方ないが、わざわざ悩みを深める必要はない(P55)

風流=もともと「揺らぐ」ということ(P59)

揺らぐというのは、何かことが起こった時に、毎回新鮮な気持ちでそれに対応しようという姿勢。「こうしよう」とあらかじめ決めてあった通りに行動することではない。
(中略)
ゆるぎない信念を持つ、なんて…デクノボーと同じ。本当は、世の中の成り行きに合わせて揺らがないといけないのです。
(中略)
次に起こることは、常に新しい出来事です。ですから、原則を持つのはいいけれど、原則を絶対視せず、もう一度揺らいでみようじゃないか、というのが風流。
(中略)
…私たち禅の坊主は、たとえば立ち上がる時に机の角に弁慶の泣きどころをぶつけて、涙が出るほど痛いような場合に、自分で「ああ、風流だなあ」と呟く。思いがけないことが起きて、私が揺らいでいると、認識する。そうつぶやくことで痛みもやわらぐ。

結局、心のあり方としての究極の無常とは「風流」(P60)

蓄積された識に染まらず、たった今の自分の心と素直に向き合うことこそが風流(P61)

自治とは、まさしく自分を治めることから(P71)

自分を治めるとは何か?自分の心を治めること、無常をわきまえ、風流に生きていくことだ。