玄侑さんの著作をいくつか読むうちに、プロフィール欄にこの本のタイトルを発見した。中国の古典はなかなか読めないので、面白そう、と軽い気持ちで借りて読んでみた。
面白いんだけどさすがは筑摩選書、とても歯ごたえのある本だった。
◆目次◆
序 章 「むずむず」からの旅立ち
第1章 荘子と禅の接近
第2章 坐忘と心斎
第3章 夢みぬ人の夢
第4章 道と徳、そして性と命
第5章 禅的「無」の系譜
第6章 渾沌王子、登場
第7章 和して唱えず
第8章 運りて積まず
第9章 デクノボーと「ご神木」
第10章 道は屎溺にあり
第11章 ビンボーと病気
第12章 詭弁の恵施
第13章 寂寥と風波、そして自適と自殺
第14章 不測に立ちて無有に遊ぶ
第15章 「待つ」ことはややこしい
第16章 運命を占うことの無意味
第17章 忘れてこそ道
第18章 明を以うる
第19章 孟子、見参
第20章 忠犬ナム
第21章 自然と風化
第22章 将らず迎えず
第23章 逍遥遊
終 章 「むふふ」の人
あとがき
長年『荘子』を愛読してきた著者が、序章で“私見を書き連ねることになった”と書いているが、これはもう堂々たるフィクションだ。
おそらく玄侑さんの投影である「私」が、完全なる自由人の周さん*1と出会い、関わりの中で『荘子』の教えを真に学んでいくストーリーだ。動物たちや混沌王子という不思議な存在、さらには『荘子』に出てくる人物が現代風の姿で登場したりもする。
玄侑さんによれば、『荘子』は禅宗の教えと通じるものがあるのだそうだ。司馬遷の『史記』には、『荘子』の表現はほとんど“フィクショナルなたとえ話”という記述があるという。
かといって純粋な小説とも違う。原文と訳、さまざまな本からの引用に著者自身の見解も詳細に述べられている。多方面からじわじわと教えてもらっているような印象だ。
失礼なたとえかもしれないが、大学受験の時にお世話になった歴史マンガを思い出した。生き生きとしたキャラクターとストーリーがあることで、ただの漢文の羅列では理解できないことがとてもリアルに感じられるのだ。
これを読むと、『荘子』が本格的に読んでみたくなる。一番いいのは、2冊並べて読むことだろう。
毎度のことながら、著者の知識の深さには敬服した。
本当は借りて読むんじゃなくて、手元に置いて人生の折々に読み返したい1冊。きっと、そのたびにじわじわくるのではないだろうか。
読むと、心の風通しが少しよくなるはず。この本の中ではたくさんの動物たちが癒され、自分を取り戻していくが、読んだ人にも同じ効果があると思います。仏教や哲学に興味のある人はぜひどうぞ。
私のアクション:あるがままに任せることを学ぶ
関連記事
読書日記:『中途半端もありがたい』
読書日記:『養生事始』
読書日記:『息の発見』(五木寛之さんとの対談)
読書日記:『無常という力―「方丈記」に学ぶ心の在り方』
以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。※メモに関してこちらをご覧ください。
「夢」とは「今」を軽く見るということではない(P42)
どんな「今」も、やがては変化して「夢」のように思い返されるだろうが、ともかく「今」はその現実の「志に適う」よう、なりきって楽しむしかない。あとは変化に身を任せるという覚悟なのである。
好きだ嫌いだと言っていたら結局我が身を傷つける(P134)
※荘周のことば
「儂がさっきから「情なし」言うてるのはやな、なにかを好いたり嫌ったりするば変わらず我が身の内も傷つくわけや。そないなことはせんと、いっつも自然にあるがままに任せて、自分勝手な判断で贔屓したりせえへんちゅうこっちゃ」