毎日「ゴキゲン♪」の法則

自分を成長させる読書日記。今の関心は習慣化、生産性、手帳・ノート術です。

「修業とは何か」がわかります☆☆☆☆

修業論 (光文社新書)
内田 樹
光文社 (2013/07/17)
¥ 821

あの内田センセイが、合気道の道場を開かれていることをご存じだろうか。私は少し前に知って驚いた*1。ただ、その前に長年合気道をされていると聞いた時には、
「だからあんな面白い、きちんと届く言葉が書けるんだ」
と納得した。
頭でっかちではなくて、体を通して書かれたような印象を勝手に持っていたからだ。

そんな内田センセイが“修業論”を書いていると知ったら、読みたいに決まっている。新聞でその存在を知って、即図書館で予約。やっと順番が回ってきた。
とにかく面白かった。


◆目次◆
まえがき
I 修業論――合気道私見
第1章 修業とはなにか
第2章 無敵とはなにか
第3章 無敵の探求
第4章 弱さの構造
第5章 「居着き」からの解放
最終章 稽古論

II 身体と瞑想
(1)瞑想とはなにか
(2)武道からみた瞑想
(3)「運身の理」と瞑想――武道修業のめざすもの

III 現代における信仰と修業

IV 武道家としての坂本龍馬
(1)修業――なぜ、司馬遼太郎はそれを描かなかったのか
(2)剣の修業が生んだ「生きる達人」

あとがき

目次の内容がなんとなくバラバラなのは、別のところで発表されたものをまとめたからだ*2。なぜ突然坂本龍馬が、と思ったら、これは司馬遼太郎さんのシンポジウムで発表したものが元になっているそうだ。

一番のメインはI。その前段として、まえがきがすでに面白い。

 修業というものは「いいから黙って言われた通りのことをしなさい」というものですけれど、いまどきの若い人たちには、そんなことを頭ごなしに言ってもまず伝わりません。どんなことについても、「その実用性と価値についてあらかじめ一般的に開示すること」を要求しなければならないと、子どもの頃から教わっているからです。
 これは「消費者」としては当然の振る舞いです。消費者は商品については必ずそのスペックを要求しますから。
(中略)
…あらゆる機会において、子どもたちは何かするときに「これをするとこれこれこういう『善いこと』がある」という説明を受けて利益誘導されています(P5)。

 彼らはこう考えます。努力させる以上は、努力した後に手に入るものを、あらかじめ一覧的に開示しておいて欲しい。そうすれば、努力するインセンティブになるから、と。
 でも、これは大いなる勘違いです。というのは、そもそも「インセンティブ」という言葉が、修業とはまったく無縁の、本質的に「反修業的」な概念だからです(P7-8)。

なぜ「修業」という言葉が今の若い人たちにフィットしないのか、ここを読めば納得できる。

修業というのは、ある種“やった人にしかわからない”もののようだ。下のメモにもあるが、理解の道筋がまったく違うのだ。センセイは「修業は鍛える・強くするものとは違う」とくり返す。わからないものがわかるようになる、理解が深まるというのが近いかもしれない。

でも、この本は“やった人にしかわからない”はずのものを、やったことがなくても理解できるようにしてくれている。具体的な技の話や、心理状態などになるとむずかしいが、どういうものなのかは何となくつかめる。さすがは言語化の天才だ。

さらに、この本は身体論でもあり、仏教やキリスト教との共通点を見出す試みから宗教論としても読める。
さらに、内田センセイのテーマであるレヴィナスは、実は合気道の鍛錬によって理解できたところもあったという。
つまり、内田樹ワールドの根底にあるものがこの本で少し理解できる。
内田ファンは必読の本だと思う。

テーマがバラバラでとっつきにくい、と感じる方は、先にあとがきを読むことをおすすめします。
もともとどこに発表したどんな内容かがまとめてあるので、読みやすくなりますよ。
私のアクション:生まれた時からこの外見です、という気持ちで外に出る*3

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以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。※メモに関してこちらをご覧ください。

処罰も報奨もなし。批評も査定も格付けもなし。それが修業(P7)

因果論的な思考が「敵」を作り出す(P41)

自分の不調を、何らかの原因の介在によって「あるべき、標準的な、理想的な私」から逸脱した状態として理解する構えそのものが敵を作り出すのである。

修業者は、どれほど未熟であっても、その段階で適切だと思った解釈を断定的に語らねばならない(P144)

どうとでも取れる玉虫色の解釈をするというようなことを、初心者はしてはならない。どれほど愚かしくても、その段階で「私はこう解釈した」ということをはっきりさせておかないと、どこをどう読み間違ったのか、あとで自分にもわからなくなる。

修業して獲得されるものは、修業を始める前には「意味不明」(P174)

身体技法の修業では、「私の身体にはこんな部位があって、こんな働きをするのか」という驚きに満ちた発見が繰り返し起こる。見出された部位やその制御法は、稽古に先立つ段階では予見されていないものであった。そもそもそのような身体部位があることさえ知らぬままに稽古をしているうちに、獲得された身体部位の感知と制御の技法である。それを「鍛える」とか「強める」ということは、はじめから不可能なのである。
「そんなこと」が人間にできるとは思ってもいなかったことを、自分ができるようになるというのが、修業の順道なのである。だから、稽古に先だって「到達目標」として措定されたものは、修業の途中で必ず放棄されることになる。そもそも修業とは「そんなところに出るとは思ってもいなかった所に出てしまう」ことなのである。

レヴィナスは、霊的成熟を遂げたものしか、本当の意味での信仰を担うことはできないと書いた(P180)

それは言い換えれば、おのれの生身の身体にしっかりと根づいたものしか、信仰を持ちこたえることはできないということである。

修業とは、長期にわたる「意味のわからないルーティン」のことである(P191)

*1:大学で教えられていて、退職された後に道場を開いたそうです

*2:つまり、4つの内容をまとめた本と思ってください

*3:病気の心境を一変させる素晴らしい言葉があったのに、メモし忘れました…