毎日「ゴキゲン♪」の法則

自分を成長させる読書日記。今の関心は習慣化、生産性、手帳・ノート術です。

結んでいるものをひらこう☆☆☆☆☆

アマゾンで調べている時に見つけた1冊。
こんな本あるんだ、と思ってさっそく借りて読んでみた。
今まで読んだ玄侑さんの著作で、文句なしに一番の本だった。


◆目次◆
はじめに
第1章 日本人本来のしあわせ観とは
第2章 システム化によって失われゆく日本人らしさ
第3章 なぜ日本人はしあわせと思えないのか
第4章 禅が考えるしあわせ
第5章 息苦しいいまを生きるために
おひらき

とにかく読みやすい。こんな言い方をしては申し訳ないが、東日本大震災の前に書かれている本なので、震災後の著作の、ともすれば被災地の話に流れて行ってしまう辛さがない*1

読みやすい理由は、実はこの本は著者の講演をもとに編まれたものだからだと思う。担当者の方が、複数の講演をコツコツと切り貼りして作られたそうだ。
そのおかげで、話し言葉がすうっと入ってくる。
養生事始』と同じく、川口澄子さんのイラストも楽しみのひとつ。


玄侑さんは、幸福としあわせは別のものだという。幸福は西欧の概念であり、日本が無理やり輸入したものだから、それによって日本人は不幸になったのではないか、と説く。
これは、以前も読んだ「自我」の問題と同じだ。

日本人は、もともと相手との関係性にしあわせを見出したのだそうだ。相手を見て、相手に合わせる柔軟性は、八百万の神をはじめ、日本の文化のあちこちに見受けられる。


「私」も、本来ゆらぐものだったのに、「私ってこういう人じゃないですか」という限定が、自分を縛ってしまい、さまざまな精神疾患を招いているのではないか、と玄侑さんは考えている。
ここでいう「結ぶ」は縛るとほぼ同義で、がんじがらめになって動けないのを、いったんひらいてみましょう、というのが著者の提案だ。


著者にかかれば、予定を立ててその通りに行動することも、未来を予測することも、頭を使って考えることも、みんな「結ぶ」になってしまう。
その対極が、禅でいうところの「遊ぶ」なのだ。


著者の勧める生き方を、そのままするのは現代社会ではむずかしいかもしれない。でも、読むだけでもずいぶん気持ちがラクになる。ガチガチになっていた自分に気づける。
私なども考えすぎるタイプで、「あなたの不調はすべて考え過ぎから来ています!」と、とある東洋医学系のところで言われたこともあるくらい。
なので、著者の

頭はロクなことを考えませんから、帽子掛けだと思って無視してください(P181)。

には思わず吹き出した。


日本人にとって自然な生き方、しあわせの受け止め方に気づける本。
現代人必読の書だと思います。頭を使いすぎて疲れている、未来が不安、いろんなものにがんじがらめになっている、と感じる方はぜひ。
私のアクション:「過去のことは思わない、先のことは憂えない」を座右の銘にする

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以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。※メモに関してこちらをご覧ください。

日本人にとっての「しあわせ」と「さいわい」(P4)

和語としての「しあわせ」は室町時代には「仕合わせ」と書いた。「さいわい」は「咲き(にぎ)わい」のことで、勝手に「幸」という文字の訓読みにしたのである。
ふたつの和語に共通しているのは、相手がいて、その人間関係力によってしか実現しないのが日本人の「しあわせ」や「さいわい」ということだろう。西欧的な「幸福」はむしろ「幸(さち)」という物質的豊かさのことだ。

便利さは幸せを招かない(P16)

便利な機械によって生じる功利主義的な心を、中国の荘子は「機心」と表現している。少しでも効率よく、得するようにうまくやろうという気分。この「機心」が発生すると、できた時間的余裕もすでに余裕じゃない。もっと多く、もっと早く、という欲望のるつぼに入ってしまって、すでにその機械を使う前の自分ではなくなっている。

「自己言及」はきりがない(P70)

自己の輪郭を明確にする=自己言及、自己を「結ぶ」とも言える
自己言及にはきりがなく、自分のしっぽをくわえて食べる蛇のようなもので、食べれば食べるほど苦しくなる。

本来自己というものは関係性の中で立ち上がってくるものであり、関係性の中で絶えず変わり続けるものであると、日本人は考えていた。だから個性という概念が入ってきて、「本来の自分」とか「実現すべき自己」という幻想を信じ込んでしまった時点で、日本人は不幸を歩んでいくしかなかった気がして仕方ない。

言葉に出したことで脳の中に概念が結ばれてしまう(P71)

しかも言葉の特徴は、そこにものがなくてもいい。だからものすごく脳が忙しくなり、その結果、人間を弱らせてしまう。目の前のことと関係ない余計なことに生命力を使ってしまうのだろう。

猫は概念を使わない(P79)

猫ははじめから左右を覚えない。現場に行って臭いを嗅ぐだけ。これが一番現場主義というのか、概念に毒されない猫のすごさ。ちなみに呆けた猫というのはまだいないそうだ。犬はかなり呆ける。犬は晩年、けっこう呆けるが、猫が呆けないのは概念を使わないからではないか。

3日覚えていてあとは忘れる(P79)

チンパンジーはだいたい3日は覚えているそうだ。4日目になると忘れてしまう。だから、我々も3日ぐらいでどうか。
「恨みは水に流して恩は石に刻め」というから恩だけ覚えていればいいのだが、たいていは逆。
過去を引きずったまま我々はものを見ているので、結んだもの、つまり、引きずったままの過去を1回ほどいて、事象そのままを見たらどうだろう。

感じるままにしておく(P82)

岡田斗司夫さんが『いつまでもデブと思うなよ (新潮新書)』の中で、食べたものをただ書いていたら、こんなに食べていたのか、と恐ろしくなったエピソードを紹介して)
そう感じるだろう。ここが大事なのだが、そう感じたまま、反省したり目標を立てたりしないで、ただ感じるままにしておく。その方が命はもっと深いところから反応してくるから。目標なんか立ててしまうと、せいぜいその程度にすればいいということになる。頭で考えることは合理性の範囲内だから、その程度の結果しか起こらない。つまり目標など立てない方が、とてつもないことが起こる可能性が高い。

先のことを決めてかかりたいのは不安だから(P82)

奇跡が起こる可能性をつぶしてまで、未来を結ぶ必要はあるのだろうか。

目標どおり、予定通りはひとつの怠慢(P86)

今月の目標というのは、その月も半ばを過ぎれば、すでに3週間近く前に立てたものだから、3週間前の考えに現状を従わせている。3週間前と今では状況が違うから、普通は目標を修正しなければいけないと思うのだが、そうはしない。昔の誰かの考えに今の私を従属させている。
昨日立てた今日の目標は本当は今朝もう一度、今朝の気分に合わせて修正しなければいけない。それならあんまりくわしい目標は、なくてもいい。

全部が予定通りに進むのは、ほとんど死に近い(P87)

どんなに楽しい飲み会でも手帳に書いた瞬間に仕事になってしまう。10日も前からわかっていると、もう仕事と一緒。
予定はあったとしても、ちょっと変えて、やりくりして、突然の出来事に合わせて修正していく。このダイナミックな心の動きがおそらく楽しいのだ。

「私」をとにかく取り除く(P91)

「私」中心に世界を形作ろうとする力をインドではサンスカーラと言うが、サンスカーラの滅尽こそが最も大切だ、と釈尊はおっしゃっている。
「私」というものは、私の都合を第一に考えて世の中を見ているから、それこそが苦の根源だとおっしゃる。

「他者との関係性」で感じるのが本来の「しあわせ」(P111)

他者と仕合うことがうまくいった、そういうことでしあわせを感じる。他者の振る舞いと合わさって、思ってもみないことが起こり、その巡り合わせを楽しいと思った。
あらかじめ確実な近未来が想定されている現代社会では、予定通りかどうかが一番の焦点になるから、まず予定外のこと自体が受け止められない。だから「しあわせ」は起こりにくい。

絶対的なものは何もない(P130)

絶対的なものを求めて、目の前の現実を見なかったらそれは生きてることにはならない。状況の中で自分も変わるわけだし、変わり続ける状況の中で立たなくてはならない。
状況に対応するために観音さまのように変化し続けるわけだから、あらかじめ決まった善や悪なんて、ない。単純な二元論は、「私」だけの勝手な判断、でっちあげだ。

「目標」とは実は「予断」(P133)

次はこう来るに違いない、と考えることを予断という。あらかじめ判断しているということで、一般社会ではそれを目標という。
(中略)
目標、計画、約束、そういうもので未来まで結んで我々は過ごしているが、突然の事態を前にして、それをどこまでほどけるか、結んでひらいてちゃんと対応できるか、それが一番の問題。

「いまに居る」とはどういうことか(P138)

「言葉でモノを考えていない」ということ。

身についてしまえば、意識しなくてもいい(P141)

身についていないから意識しているのだ。

自転車も…皆、補助輪をつけて練習する。そしてある時補助輪を取っても、乗れるようになる。そうなると何年乗っていなくても乗れる能力は失われない。これが身につくということ。

禅の基本的な立場は「過去のことは思わない、先のことは憂えない」(P144)

この状態が禅でいう遊。つまり先を予測せずいまを遊ぶということが最高の境地。

「自分を信じる」ということは(P168)

自分のことなんか自分でもわからないよ、ということ。わからないまま安心していられるのが、実は信じるということ。わからないまま進むから、奇跡だって起こる。

あれこれ結んで評価することは、他人に任せてしまう(P186)

評価したい人が勝手に評価するから、放っておけばいい。

「手を拍つ」は有効だ(P190)

結んでひらいて、の途中に「手を拍つ」のは、なんだか実に有効な気がする。ちゃんとひらいて心やからだをニュートラルにし、あらためて新鮮な心身でまた結ぶのである。

*1:と言っても、この本にも地震などの自然災害に対する気持ちの持ちようが書いてあり、今読むと胸を打ちます…