今の私にはピッタリの本だった。
◆目次◆
はじめに
第1章
友の有無にこだわらない
嬉しかったことにこだわらない
若さにこだわらない
ありがとうにこだわらない
住む場所にこだわらない
他人の期待にこだわらない
第2章
所属にこだわらない
平等にこだわらない
ルールにこだわらない
食事にこだわらない
葬儀にこだわらない
宗教にこだわらない
第3章
「快」「不快」にこだわらない
アイデンティティにこだわらない
スピリチュアルにこだわらない
性の幻想にこだわらない
自我を消すことにこだわらない
「〜すべき」にこだわらない
おわりに
最近では「こだわりのセレクト」とか「素材に徹底的にこだわった」など、よいことのように使われる言葉「こだわる」。
もともとはあまりいい意味で使われない言葉だった。
何かにこだわりすぎると、身動きが取れなくなるようなイメージ。
この本で、著者はこだわりは執着だと書いている。
仏道という道すじは……「執着=こだわり」を手放し放棄することでこそ、人は幸福になれると指し示しています(P6)。
いろいろなものにこだわると、実は自由度を下げてしまうし、快と感じるものを狭めるため、不快に感じるものが増えてしまうのだそうだ。。
こだわりを手放して、ラクになりましょうというのがこの本のコンセプトだ。
もくじに、こだわることをやめる対象が挙げられている。驚くようなものもある。
たとえば、食事法。
「食事にこだわらない」には、玄米菜食にこだわっていた著者が、その結果病気から回復するのに時間がかかってしまった*1、という苦い体験が語られている。
「健康にこだわる人ほど不健康」というパラドックスがあるが、まさにその理由を見るようだ。
特に印象に残ったのは「ありがとうにこだわらない」と「他人の期待にこだわらない」。
嫌われないためのツールになった「ありがとう」は大安売りになり、有り難みがなくなってしまったという。
また、周りから期待されるキャラを演じるあまり、それに縛られて“不快”になっている人は多い。
よく見せようと思わない、背伸びをしないことで、もっとラクになれそうだ。
こんな風に、日常のいろんなことに仏教的な見方「快」「不快」という視点を持つことで、自分のこだわりに気づいて手放しやすくなる。
お坊さんがこんなことを書いていいんですか、という「性の幻想」についても、恋愛まっただ中の人にとっては素晴らしい教えになると思う。いろんな苦しみから解放されそうだ。
『○○ない練習』というシリーズはこの本が3冊目だが、パターン化するのもこだわりの一種ということで、この本でおしまいだそうだ。
さまざまなマイルールを作ってがんじがらめになっている人にとっては、その鎖を解き放つきっかけになる本。
「それ、どうでもいい」と言いたくなる。こだわらず、軽やかに生きていきたい人はぜひどうぞ。
私のアクション:シリーズ2冊目『苦しまない練習』も読んでみる
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以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。※メモに関してこちらをご覧ください。
こだわり=執着(P7)
仏教的見地から見ると、こだわりとは“快”を求めすぎて“快”を感じる回路を限定してしまうため、それ以外のものを“不快”として受け止めるようになり、むしろ“不快”の源泉になる。
「確実に死ぬ」ことを受け入れる(P42)
「確実に死ぬ」という事実を前にすると、心がシャキーンとして、自分の中で本当に大事なことは残しつつ、さほど大事でもないはずなのに執着していたことは抜け落ちてくれる。
自分が上がるのではなく他人を引き下げようとする、妬み心からは、美しいものは生まれない(P95)
私たちが何らかのルールに従うようになる最初の動機(P105)
他人から非難されずに受け入れられたい、承認してもらいたい、評価してもらいたいという自己保身、自己保存の欲求に基づいている。
健康法へのこだわりは不健康(P121)
その執着は、世界の現象に対して「健康によい、悪い」という基準で考えすぎるため、心にとって不健康。
自尊心は生活のささいなことで満たしておく(P209)
日々の掃除、料理、庭の整備、ベッドメイキング、散歩あるいはDIY系の仕事など、といった、やりさえすれば確実にできることをコンスタントに積み重ねながら、ささやかな「優れている」感を満たしてやる。
(中略)
日々の基礎的な身体性において、必要悪としての慢心はおとなしくさせる。そうすることで、仕事や人付き合いや瞑想の中に、持ち込みたくなる慢心の量を、少しでも減らすことができる。
*1:玄米は消化するのに力が要るため、消化器が弱ってしまった時には負担になります