夢というものは、生きていくために必要なものだと僕は思っている(河合)(P26)
それは一種の調整作用みたいなもの。
「関係性」とは心のつながり(P34)
(河合)行動療法なんかも、自分たちは科学的にやっているという風に考えるわけですね。ところが、その中には絶対、関係性が入ってくるんですね。
※不登校の子どもに、「ではまず、玄関まで行きましょう」、行ったら「えらかったね。じゃあ、次はあの角の所まで行きましょう」と少しずつやる。これが行動療法。
その子は保健室まで行けるようになったが、他の先生が来て「ここまで来れるんやったら、教室へ行って、勉強せい!」と言ったため、その子は家に帰り、もう来なくなった。そこで関係性が切れてしまった。
ここで大事なのは、「ここまで行った」「あそこまで行った」というのは科学的、論理的にうまいこといっていたんやない。それは、先生とその子との関係性で行われていた、ということ。
(茂木)行動が切れたんじゃなくて、関係性が切れたということですね。
脳科学では心の一部分しか見えない(P61)
(茂木)本当に心、精神の運動というのはダイナミックに起こる。でも科学というものが要求するのは再現性・普遍性であるわけです。しかし、人間の心の動きって再現性があるわけがないんですよ。
夢の中で「意味」がつながる時(P139)
(河合)我々はふつう考える時は、分けて考えた方がわかりやすいでしょう。「この問題はこう分けて考えましょう」というけれど、本当は分けられないんじゃないかと思うんですよ。人生でも何でも。だから本当は分けられないもの、徹底的に分けられないものの意識が夢に出てくるんですね。
自分がこうだと思い込んでいるほど、誰も自分自身のことをわかっていない(河合)(P141)
夢なんかで、そっち側のわからない方が夢に出てくるんですね。
言語で表現されているのは一部分(P146)
(河合)たとえば「どうでした?」と訊いて「ああ、おもしろかったですよ」といったって、単に「おもしろい」いうようなもんやないでしょう。ほかに、ものすごいたくさんありますね。それを一応「おもしろい」という言葉にしているわけです。
(河合)僕がいうのは「私のやっていることは近代科学とは違います」(P183)
「違うことをやっているんだけれど、意味があるんです」という言い方をしている。いちいち誰かに承認してもらおうと思ったら、「これは科学的です」と言わないとよくわからなかったんです。「科学的」だと言ったら、みんな信用したわけですね。
下手をすると、宗教なんかでも、「この宗教の正しさが科学的に証明された」というのね。そしたら、科学にしたらええのにね。そういうくらい、みんな主観の世界と科学がごっちゃになっている。