(P73)
自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の手足でやってみるということ。もしやそのことを、今の世の中は「不便」と呼んでいるんじゃないだろうか。
だとすれば、不便って「生きる」ってことです。
だとすれば、便利ってもしや「死んでる」ってことだったのかもしれない。
(P153)
私は何をしているのだろうか。
私は、人生の「いつか」、つまりは人生の可能性を捨てているのだ。
そんなことを自分の意志で行う日が来るなんて、考えたこともなかった。ずっと、可能性を広げることが豊かさなのだと信じて生きてきたのである。
しかしそれは本当に豊かさだったのだろうか。可能性を広げると言いながら、実際には欲を暴走させて不満を背負い込んできただけではなかったのだろうか。
(P228)
便利なものに囲まれていた私の暮らしは、いわば、必要な栄養や薬を補給してくれるたくさんのチューブにつながれた重病人のようなものだったのではないか。
チューブにつながれている限りは生命を長らえることができる。安心である。その代わり、ベッドから片時も離れることはできない。
私がやってきたことは、このチューブを一つ一つ抜いていく作業であった。まさに決死の覚悟で。でも、思い切ってやってのけたのだ。そして何が起きたか。
私はベッドから起き上がり、自由に歩き回れるようになったのである。
(P229)
「何かを手に入れなければ幸せになれない」という思い込みは、振り返ってみれば自由どころか不安と不満の源泉であった。なぜなら、何かを手に入れてもすぐに次の「欲しいもの」が現れるからだ。いつまで経ってもゴールはない。
シンプルな食生活は何日続いても飽きないという。「ご馳走」は飽きる(P258)
……実は嬉しいのは最初だけで、1週間もすれば見るのも嫌になるはずです。それは「美味しすぎる」から。美味しすぎるものは毎日は食べられません。
(P263)
……自分が暮らしていくのに必要なものはどこまでも小さくなっていくばかりなのです。
それは、パンパンに膨らんでいた風船にプシューっと穴があいたような感じでした。風船はシュルシュルとしぼんだわけです。もう自分を大きく見せることはできない。でも、それでいいんじゃないかと。必要以上に自分を大きく見せなくたっていいんじゃないかと。