- 作者:小池 龍之介
- 発売日: 2012/09/01
- メディア: Kindle版
以前、小池さんのどれかの本で読んだ 「快楽は苦痛の落差から来る」という説を確認したくて、ネットで検索したらGoogleブックスがこの本のページをそのまま表示した。「そういえば、この本読んでなかったわ」と思い、図書館で予約したもの。
読んでみると、確かに解説はわかりやすいが、そこに書いてある小池さん自身の半生が冗談抜きで「ヒィィィィ!」レベル*1。
真剣に読むと辛くて進まなくなるので、あまり深入りせずにサラッと読んでみました。
◆本の目次◆
はじめに
1 渇愛・慢―煩悩の塊としての子供
2 怒り・嫉妬―道化を演じた高校時代
3 見・無知―狂気へ傾倒した大学時代
4 自分コントロール―修行で生まれた新しい自分
おわりに
この本の内容について書く前に、お伝えしておく必要があること
この本が書かれた時(2010年)と、小池さんの状況は大きく変わっています。現在はお坊さんをやめ(還俗)ているそうです*2。
まったく知らなかった。小池さんの本は好きで何冊も読んでいたのに。ショック。
その辺の経緯は仏教関係の本を扱っているサンガのブログに載っています。
samgha.co.jp
読んで最初に思ったのは「“解脱に失敗”したら、お坊さんをやめなければならないのだろうか」。
もし「僧侶は解脱していなければならない」としたら、今の日本に僧侶は何人いるのだろう。
だから、「還俗までしなくても」と思った。
小池さんはとても正直な人なのだろう。
著書について、小池さんはご自身のサイト「家出空間」で、こう書いている。
2017年以前の著作にかんしては、良いところばかり書いてあるがままでない、という欠点が感じられるものの、有益に用いてもらえると思います。
とは言え、今まで「自分とは違う、向こう側の世界にいる人から学ぶ」と思って小池さんの著書を読んでいたのも事実。
自分たちとそんなに変わらなかったのかも、と思うと受け止め方も変わる。
「ははーっ、ご高説賜ります」じゃなくて、ちょっと前を行く先輩くらいのつもりで読んだ方がいいのかもしれない。
――という、複雑な気持ちで読んだことをお断りしておきます。
さて、この本の内容ですが。
過酷という言葉が大げさに聞こえない著者の半生。まるで太宰の『人間失格』のようだ…と読みながら思っていたら、太宰にかぶれていた時があったそうだ(中学時代)。おそらく、この本のタイトルもそこから取っているのだろう。
強烈な「渇愛」。親へ、そして友達への「自分を愛して欲しい」という強烈な欲求。
私も、身に覚えがあります。
しかし。私の場合はここまでひどくなかった。小池さんと比べればミニサイズか、マイクロサイズくらいのものだったので、理解はできるが読みながらとても辛くなった。
そういう経験がない人にとっては、これを読むのは苦痛かもしれない。
小学生の頃から中学、高校と「渇愛」は形を変えながら小池さんを苦しめる。
大学に進学後、今度は「渇愛」の対象が女性に移る。
交際相手の自殺未遂、学生結婚、その後の離婚。
ひどい状態の小池さんに瞑想を勧めたのが僧侶であるお父様だったという。
瞑想を続けることで、ようやく自分をコントロールできるようになりました、というのがこの本の内容だ。
あまりにも苛烈な半生と、あまりにも明晰な解説のコントラストが強烈です。
「具体例としての半生」がないと、この解説は生きないのだろうか。
ただ、4章「自分コントロール」を読むと、瞑想のよさが素直に感じられます。
これも強烈なここまでとの「落差」が感動を生んでいるのかもしれませんが。
瞑想を続けるうちに
…「あ、心に浮かんでくる感情って、こうやって瞑想状態で客観的に見つめていると自分を支配できずに、すっきり消えていってくれるんだな」ということが生まれて初めて体感できたのです(P172)。
こういう感覚を得たそうです。そこまでに1週間。
瞑想を続けるとどうなるのか、ということが今までうまくイメージできなかったので、この言葉は私には収穫でした。
- 苦痛と苦痛の落差が快楽を生んでいる
- ストレスの根っこにあるのは「慢」
- 幸せになれない構造
苦痛と苦痛の落差が快楽を生んでいる
快楽というものは身体を犠牲にして苦痛を与えながら、その苦痛情報を脳内で「心地いい」とデータ変換してつくりだされるものなのだと。私はそのように解釈しています(P20)。
つまり、私たちは「苦痛1」から「苦痛2」へと逃げ込んで落差をつくるときに、快楽という幻を脳内生産しているのです。この落差を脳が情報処理し、快楽として認識すると「快感」という脳内反応が生じます。ドーパミンが大量放出されることで、心理的には興奮がもたらされますが、身体的には、血圧が上がり息が乱れ、苦痛がもたらされているだけ。あたかも快楽というものが実在するかのように錯覚しているだけなのです(P22)。
だから、快楽を得ようとするほど苦しくなる。快楽は脳内麻薬を発生させるので、それを繰り返し求めるのは「麻薬中毒者」と同じ、なのだそうだ。
ストレスの根っこにあるのは「慢」
人生のあらゆる場面で感じるストレスをよくよく見てみると、そのように「自分のことを認めてくれないの?私の価値をなんだと思っているの?」という「慢」が深く根ざしていることが多いのです(P26)。
おそらく「愛されたい」の根っこにあるのはこれ。私も身に覚えのある「自分をあなたの一番(=大事な人リスト1位)にしてほしい」という欲求は「慢」だったのか。
これを自覚していれば、かなりのトラブルが防げるのではないか。「私ににはこういう傾向がある」と自覚していれば辛くなることもないし、クレーマー予防・対策にもなる。クレームのほとんどは「俺(私)を大事に扱え!」だからだ(体験談)。
幸せになれない構造
幸せになりたい。なのになれない。それは構造的に不可能、というのが衝撃だった。
「満たされたい」と願い、「欲しい―足りない」の渇愛が求めるものの本質は「刺激の落差に興奮するジェットコースター」。
だから、恋愛においてふたりの関係がうまくいき、落ち着いてきたら、幸せなのにそうは感じられない。刺激がない=飽きたと思ってしまう。
幸せとは「刺激のない状態」なので、刺激を求める心の構造上、幸せにはなれないことになる。
刺激がない状態を幸せと感じるようになるしかない、かもしれない。
もっともカギとなるのはここ
欲望はそのまま、「欲しい―足りない―欲しい―足りない」の無限連鎖にからめとられる、飽くなき麻薬性の衝動です。文字どおり、ドーパミンという脳内麻薬を放出して、快楽を繰り返したいがために中毒化していく。「あれも欲しい、これも欲しい」という「貪り」であったり、「自分は正しいのだ」と主張したがる「見」であったり、あるいは子供時代の私がとらわれ続けていた「自分はすごい、自分を認めてもらいたい」という「慢」であったり、欲望はさまざまな煩悩に発展していきます(P81)。
快楽や煩悩などの解説は、小池さんの他の著書でも読むことができます。
この本を1冊目に読むのはおすすめしません。
読む人を選ぶ本。
このブログを読んで「心当たりがある…」と思った方は読んでみてください。
私のアクション:瞑想を15分まで伸ばす*3
■レベル:破 かなり極端な本なので
※この本のメモはありません