回復力―失敗からの復活 (講談社現代新書) 畑村 洋太郎 講談社 2009-01-16 価格 ¥ 756 by G-Tools |
著者が「失敗学」について考えるきっかけになったのは、講師時代「昼食を食べていたら、窓の外を大きな黒い影が落ちていった。影の正体は飛び降り自殺をした学生だった」という体験だ。失敗したことで追い込まれ、死を選ぶ人が多い。そこまで行かなくてもうつになってしまう人が実に多い。失敗しても自殺したり、うつにならないためにはどうすればいいのか、というのが「失敗学」のスタートだったという。
人は誰でも失敗します。でも誰でもそこから回復する力は持っているのです。
と考える著者が、失敗から立ち直り、失敗と上手につき合っていくための方法を示しているのがこの本だ。
私がこの本を読んで強く思ったのは、失敗した人が死を選んだり再起不能にならないために大切なのは「社会が失敗を容認すること」の必要性だ。著者はそれを「文化の成熟」だとしている。他国がどうなのかはよくわからないが、日本がまだまだ失敗を許さない文化だということはこの本を読むとよくわかる*2。日本では「うまくいって当たり前」で、「失敗したら死んでおわび」が潔い、とされる文化では失敗することができない。失敗して学ぶことが大切な局面もあるのに、「失敗=悪いこと」と考えていたら成長する機会すら奪われてしまう。
また、失敗はどれでも同じように厳しく批判することの問題も指摘されている。
例としてあげられていたのが和菓子製造会社「赤福」の問題だ。冷凍再出荷製品の「製造年月日」を再出荷の日付にしていたことや、材料を再利用していたのは消費者を裏切る行為で許されるものではないが、それで健康被害が出たわけではない*3。このケースとミートホープなどの悪質な食品偽装の問題を同列にするのはおかしい、と著者は指摘している。言われてみれば確かにそうだ。
このように、「失敗を正しく評価する」姿勢も必要なのだと思う。それも「成熟した文化」では当たり前のことなのだろう。
ただ、文化が成熟するにはまだまだ時間がかかるため、それまでに失敗した人が追い込まれないためにどうすればいいのか、また失敗しないための準備や失敗をどう活かすかの手法についても詳しく教えてくれる。
今辛い人はもちろん、今後失敗した時の備えとして読んでみる価値のある本だと思う。また、周りに失敗がもとで落ち込んでいる人や、うつの原因が仕事での失敗がきっかけの人がいたら、その人とどう接すればいいかのヒントにもなる。
以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。
ガス欠状態
程度に差はあるが、失敗した時には誰だってショックを受けるし傷つく。
本人は気づかないかもしれないが、直後はエネルギーが漏れてガス欠状態になっている。こういう時に失敗とちゃんと向き合い、きちんとした対応をしようとしても、よい結果は得られない。大切なのは「人(自分)は弱い」ということを認めることだ。自分が、今はまだ失敗に立ち向かえない状態にあることを潔く受け入れて、その上でエネルギーが自然に回復するのを待つしかない。
苦しい状況では頑張らない
もちろん、苦しい状況のなかで頑張った努力が報われることもある。しかし、こういうことはめったにない。頑張って動いても、よい結果が得られないことの方が多いのが現実だ。だから動きたくてもがまんして、自分の考えや行動を変えるだけのエネルギーがしっかりと蓄積されるまで待ってから行動する方が結果としていい。これはスポーツ選手のケガと同じこと。ケガが治りきらないうちに焦って復帰しようとすると、結果として回復が遅くなってしまう。
エネルギーが回復するのを待つ
エネルギーは人間の行動の源だ。それは自分自身の考えや行動を変えるのに不可欠なものだ。失敗からできるだけ早く回復するには、失われたエネルギーをいかに上手に早く溜めるかが大切になる。
いずれにしても、エネルギーが戻ってくると人は必ず自発的に行動したくなる。誰にでもその時期は必ずやってくる。多くの失敗者と接する中で、私はそのことを確信するようになった。
だから、自分の「回復力」を信じて、その瞬間をひたすら待つのが失敗への最高の対処法なのだ。
「逃げる」
もちろん、ここで言う「逃げる」は、「責任を放棄する」という意味ではない。あくまでエネルギーが回復するまでの一時避難だ。一時的にその場から離れるだけでも、その人は自己否定の思考回路から逃れられ、自滅への道へと陥ることを避けられる。これは大変大きな意味のあることだ。
「他人のせいにする」
逃げることにどうしても抵抗がある人の場合は、失敗したことを肯定する言い訳を用意するのもひとつの手。失敗したことを「しょうがないことだった」と考えたり、「自分は悪くない」、あるいは「他人のせいで失敗した」と意識して考える。
これもまた潔い考え方ではないが、口に出さずに頭の中でそう考えるだけでも、状況はだいぶ変わってくる。
誰でもそうだが、失敗直後は思考が否定的になりがちだ。頭の中で自己否定を繰り返しているうちは、建設的な考えは絶対に生まれてこない。つまり失敗直後に大切なのは、こうした否定的な思考の連鎖をまず止めるということだ。
できることを淡々とやる
こうした大変な状況の時に、いつも心がけていたのが、自分ができることをただ淡々とやり続けることだ。そのうちに周りの状況は徐々に変わっていく。そして、気づいた時にいつの間にか窮地から脱していたということが何度かあった。
自分の置かれている厳しい状況をあえて悲観も楽観もしないで、その時点で自分ができる最善の策を淡々と実行し続ける。
自分の失敗を認める
不思議なもので、「これは失敗なんだ」と自分の失敗を認めることができた瞬間から、状況が一変する。レンズのくもりが晴れたように、いろいろなものが見えるようになる。失敗と正面から向き合うことではじめて、今どういったことがどういったシナリオで起こっていて、それによってどのような問題が発生しているかとか、今後どのように展開していくかなど、見えてくるようになる。
失敗を見る時の「絶対基準」
結局は「お天道様に向かって堂々と話せるかどうか」ではないか。
お天道様という言葉は、最近ではあまり使われないようだが、これはキリスト教でいうところの「神」と同じ概念ではないだろうか。キリスト教を信仰している人にとって、神はその人の一挙手一投足を常に見守っている存在であり、彼らはその神が示した絶対的な価値観に基づいて行動することを大切にしている。
日本人は人との関係を大切にしているので、どうしても他人がどう思うかを重視する傾向がある。しかし、人というものは、その場の空気やその時々の雰囲気に左右されやすいものなので、失敗の軸としては適していない。やはりお天道様のような絶対基準を使わないと、失敗の評価は正しくできない。
失敗後の対処は「損得勘定」で
私は、失敗後の対処は“損得勘定”をしてから行えばいいと考えている。もちろん、その場合でも失敗をきちんと評価して、何が起こっているかを正確につかんでおかなければならない。
その上で謝った方が自分に得になるなら、理不尽に思えても頭を下げればいいし、そうでなければ開き直るという風に、自分にとって最も得になる行動をした方がいいと私は思う。
「被害最小の原理」
工学の世界には「エネルギー最小の原理」や「仮想仕事の原理」という言葉がある。あるひとつの現象を起こすのに複数の方法がある場合、それぞれのルートは消費するエネルギーが異なるというのが「仮想仕事の原理」の考え方。そして、その複数の中から最もエネルギー消費の小さいものが現象として生じるというのが「エネルギー最小の原理」の考え方である。
「被害最小の原理」は、これらの概念を参考にして私が作った造語だが、私は人が失敗に直面した時は、この原理に基づいて対処法を選択した方がよいと考えている。
失敗に対処するだけで、人は自分で思っているよりも多くのエネルギーを使う。これを極力セーブしないと心身共に疲弊してしまう。場合によっては困難な状況につぶされてしまうこともある。それだけは絶対に避けなければならない。
「被害最小の原理」はそのようなことを防ぎ、失敗した人の命を守るためのものでもある。
簡単に非を認めない
ふつうは、自分に非があると自覚している時には、そのことを素直に認める方が態度として正しいように見えるが、私はこれに反対だ。
なぜなら、今の日本社会では、「失敗した人が非を認めると、その時からそれが真実として扱われる」というのがルールになっているからだ。そして、非を認めた人は、組織では人事面で不利な扱いを受けるし、社会では刑事追訴や懲罰人事などなどの厳しい扱いを受けることになる。
現実的な対処としては、「わからない」とか「知らない」で通すのが無難。ささいな嘘をつくことに抵抗があるなら、あれこれ聞かれた時には「答えられない」で通すのもひとつの手。
大切なのは周りからの責任追及に決してつぶされないことだ。そして、必要に応じて「逃げる」などの一時避難をして、何をおいても生き続けるのだ。失敗に負けて命まで奪われることほどばかばかしいことはない。
フレキシブルであること
岡村さんの場合は、「絶対にあきらめない」という強い思いを、そのエネルギーに変えていたようだ。でもそれは「頑な」というのとはちょっと違う。工学部長の時代の姿を思い出すと、はたから見ていて非常にフレキシブルに動いている印象があった。困難な状況に直面した時には妥協することもよくあった。だが一方では、本当に実現すべき目的に向かっていく姿勢はいつも崩さず、焦点が絶対にぶれないように組織運営を行っていた。
目標を実現する途中では、小さな失敗がたくさんある。その中には想定外の失敗もあるだろうが、そもそも予定通りにはいかないことがあることを頭に入れつつ、フレキシブルに動きながら最終目標に向かっていくのだ。
失敗を記録する
最も大切なのは、失敗を前にして自分が何をどう考えてどう行動したかをあとあとまでしっかり覚えておくこと。それができれば、自分の判断や考え方、あるいはそれに基づいた行動がどんな風に間違っていたかをあとで確認することができる。これは失敗を正しく理解するための基本だ。そして、そのようなことができる人だけが失敗に学ぶことができるのだ。
可能であれば、失敗を前にして、自分が何を考え、どんな決断をし、どんな行動をしたかといった、その時の思考のプロセスなどを記録として残すとあとあと役に立つ。この方法を使うと、時間が経ってから起こるかもしれない、自分を正当化するための記憶のすり替えにも対抗できる。
記憶のすり替えはなかなか侮れないものだ。極端なことをいえば、その時の思考のプロセスまでがごっそりすり替わってしまうことがある。自分を正当化するためのシナリオ作りをあとから頭の中で無意識に行ってしまうのだ。これでは、失敗という貴重な経験を次に活かすことができない。
だから、「どのようなことを考え」「どのように経験し」「どのような行動をとったか」といったプロセスだけでも控えておくことをすすめる。
時間をおいてから対処する
時間をおくことで、以前とは違う視点でその問題について考えるというのは、失敗にうまく対応するためのひとつの有効な手段なのだ。
失敗を想定しておくメリット
人は面白いもので、自分なりにいろいろ考えた上での失敗だと、「自分が考えた上での、この結果なら仕方がない」と割り切った気分になり、心の動揺を小さく抑えられる。実はこれはかなり重要なポイントだ。ショックに動じることなく冷静に考えたり行動できると、失敗の被害はおのずと最小限に抑えられる。また、想定外の問題に対しても臨機応変に動くことができるので、失敗からの回復はそれだけ早くなるのだ。
失敗の想定「逆演算」
逆演算の場合は、まず具体的にどんな失敗が起こるかという結果を思い浮かべて、そこからさかのぼりながら、その失敗を誘発する原因を検討していく。つまり、逆演算だと、自分が最も起こってもらっては困ると考える致命的な失敗をまず検討できるのだ。まず重大な失敗を想定し、それが起こりうる状況をつぶさに検討することで、仮に失敗した場合でも被害を最小限に抑えることも可能だ。
仮想演習する
何かを成し遂げようとする時、検討しなければならないことは山ほどある。そして、その際には、頭の中でシミュレーションをたくさん行っている人ほど、実際にそのことに挑戦した時にはうまくいく可能性が高くなるし、その反対に失敗する可能性は低くなる。これは人生のあらゆる場面に共通することだ。
世の中の流れを見る
大切なのは、「社会は必ず変化する」ということを念頭に置き、その変化を意識することだ。変化によって、従来通りやっていたことが、突然大失敗の元になることがある。それさえ理解できれば、社会の変化に敏感になって、大きな失敗に追い込まれる前に何らかの手を打つような行動ができるようになるのではないか。
マニュアルだけではダメ
製品やサービスの品質を一定のレベル以上に保つためには、マニュアルのようなものは必要だ。ただし、マニュアルを使う時には、環境などの制約条件の変化によってマニュアルが当初の目的を果たせなくなっていないかどうかを常に検証する必要がある。
こうした時代に必要なのは、仮説を立てたり自分の経験を通じて考えを作っていく能力だと私は考える。誰かをあてにするのではなく、その時々で必要な考えを自分自身で作れるようにするのだ。それができる人が、社会のシステムがあてにならない困難な状況でも、アリのように努力をしながらしぶとく生きていけるのではないだろうか。
励ましは禁物
エネルギーがないからうつ状態にあるのに、そこでさらにエネルギーを出すことを要求するのは、相手に「死ね」と言っているようなものだ。うつ状態の人と接する時には、このように相手にプレッシャーをかけたり、こちらの価値観を押しつけるようなことは一切してはならない。
こういう時には本当に、励ましの言葉をかけるより相手の話をただひたすら聞いてやる方がはるかに効果的。たとえば「自分は無能だ」と悲観的なことを言ってきたら、厳しく叱責したりせず、「今は疲れているだけだから」と言ってやる。こんな風に気持ちを楽にしてやりながら体の中にエネルギーが蓄えられるのをじっくり待ってやると、たいていのとは自らが持っている回復力のおかげで自然に状態がよくなっていく。