毎日「ゴキゲン♪」の法則

自分を成長させる読書日記。今の関心は習慣化、生産性、手帳・ノート術です。

病気はメッセンジャー

病気が教えてくれる、病気の治し方―スピリチュアル対症療法

病気が教えてくれる、病気の治し方―スピリチュアル対症療法

スピリチュアルの世界では、病気は何かを教えてくれるためにやってくる、という考え方がある。それをきちんと受け取ると病気は去って行くのだそうだ。それを何となく知っていたので、病気がわかった時はここから何を受け取ればいいのかずいぶん考えた。

この本は、それをとても詳しく斬新な角度で教えてくれる。2部構成になっていて1部が基本的な考え方、2部がそれぞれの症状と解釈の方法だ。
その辺のお医者さんが怒って怒鳴り込んできそうなこともたくさん書いてあるが、病気をした経験からこの本に書いてあることは真実だと感じた。

本来意識で対応するべき問題を無視したり気づかずに処理できなかった場合、その問題は体に降りてきて症状として本人に知らせようとする。それが病気なのだ。だから、症状が不愉快だからと薬を飲んで抑えたり、手術をして患部を取り除いたりしても意識の面で変わらなければまた再発する。がんもアレルギーも頭痛も目や耳の病気も、全部意識の問題から起こって来るのだそうだ。

たぶん私の場合も意識の段階で直面していれば発病しなかったのだと思う。わざわざ気づきなさいよ、と教えに来てくれたのだ。症状が出ることで今までちゃっちゃとやっていたことができなくなったり、動けなくてじっとしていることが増えたりといった変化は、本来その人が取るべき行動を病気が教えているのだそうだ。そうしなければいけないことをしなかった場合、病気が強制的にそうさせてしまう。そう考えると病気というのはありがたいものだし、それでもなるべく病気にはなりたくないので意識のうちに直面できるようになりたいと思った。

一番わかりやすいのは姿勢の問題。気持ちがシャキッとしていないといい姿勢は保てないのだそうだ。体は意識の表れなので当然のこと。だから軍隊などで無理矢理姿勢を矯正するのは何の意味もない、と書いてあった。中身が伴っていないから。なるほどね。私は猫背なのをずっと気にしていろいろやってみたが結局維持できないのは意識がしゃんとしていないからだったのか。
じゃあまず意識をしっかりさせることを考えよう。


以下は読書メモです。興味のある方はどうぞ。

影は人を病気にするが、影と出会うことで健康になる。

これが、病気と健康を理解するポイントだ。症状はすべて、物質化した影である。つまり、意識の中で体験したくないものを症状で体験するのである。症状は、体を経由して人間を再び完全にする。これは相互補完性の原則だ。意識の中で特定の物質を拒むと、その性質は体におりて症状として出てくる。そのため、けっきょくその性質を体験して実現することになる。このようにして症状は人を健康にするのである。

自分に正直になれというのは、やさしい要求ではない。

真実を追究する人たちが、最も重要で最も困難な課題は自己認識である、と昔から言いつづけているではないか。自己認識とは、自己を発見することであって自我のことではない。自己はすべてを含むが、自我は境界を作るので全体を把握できない。自分に対して誠実になろうと努める人には、病気が心強い助けとなるだろう。病気は人を正直にする。なぜなら、病気の症状は、心が追い払ったものをはっきりと示してくれるからである。

影は人が拒否したものの総体なのである。

現実の一部と根本的に取り組むことを拒否しても、うまくいかない。拒否された現実とかえって徹底的に関わることになってしまう。これは、投影をとおして起こる。自分の内部のある本質を拒んで追い払えば、外界でそれに出会うたびに不安や拒否感情が呼び起こされるのである。

ミクロコスモスである人間は、宇宙の似姿であり、

あらゆる存在の原則を意識の中にもともともっている。両極性の世界を進むということは、人の中に潜在するこの原則を、具体的な手段によって実現することである。そうやって少しずつ道を認識していく。認識するためには両極性が必要だが、両極性は選択を求める。選択するということは、ふたつの極をばらばらにして、ひとつを選び、もうひとつを拒むことになる。受け入れられた方の極は、行動に置き換えられて、意識的に取り入れられる。拒まれた方の極は影になる。影は、再び外界からアプローチして私たちの気を引く。これは病気という形であらわれることが多い。影の部分が体に入ってきて症状として具体化されるのである。症状は、捨てられた性質をどうしても実現させようとする。そうやって人間にバランスを取り戻させる。症状とは、意識に欠けているものが体に出たもの。症状は人を正直にする。追い出した部分をまた目に見えるようにするからである。

罪を受け入れる

罪や悪魔といった概念が実は両極性を指すもので、これと関係あるものはすべて両極性と呼んでいいという考えに慣れるためである。人は何をしようと罪があることに変わりない。罪と共に生きることを学べばいい(そうでないと自分自身にたいして不誠実になるからである)。罪から解放されるには、単一性に到達するしかない。しかし、真実の半分を回避しようとする人には到達できない。そのため治癒への道は困難になる。罪の中を通っていかねばならない。

ふたつの極は自然にひとつにはならない。

ふたつの極を身につけるように努力しなければならない。ふたつの極を取り入れれば、真ん中を見つけることができる。これが対極統合の出発点である。世界からの逃避も苦行もふさわしい方法ではない。ひるまず意識的に人生の難題と立ち向かう勇気が望ましい。

自分にふさわしい法則を見いだせば、他のすべての規則は要らなくなる。

心の最も深い部分にある法則は、自己の中心を発見してそれを実現すること。これは、すべてとひとつになることである。

対極をひとつにするための道具は愛である。

愛とは、自分を開いて外にあったものを中に入れるという性質を持つ。愛はひとつになることを希求し、溶け込みたいと願っている。愛は他我を自我に変え、自我を他我に変えるので、対極統合のキーなのだ。愛は、全宇宙とひとつになりたいと願う。これが実現されない限り、愛も実現されない。選択をしているうちは真の愛ではない。選択とは離れることだが、愛は離れないからである。愛は所有しようとせず、流れ注ぐものなので、嫉妬することがない。

病気とは、不健康から健康に向かうターニングポイントだ。

そのためには、病気と闘うことをやめ、病気に対して目や耳を開くこと。患者は自分自身に耳を傾け、症状とコミュニケーションしてそのメッセージを理解すること。自分の見解や想像に疑問を投げかけて、症状のメッセージを意識的に取り入れること。自分に欠けているものを意識に取り込めば、症状は必要なくなる。

ロシアの神秘主義者P・D・ウスペンスキーが速くも1920年代に、将来を表す14枚目のタロットカード(節制)で時間の問題を指摘している。

「天使の名前は時間だ、と告げている。額には円があるが、これは永遠と命のしるしである。天使は手に、金と銀のふたつの水差しを持っている。ふたつの水差しのあいだにかかった虹は現在を示す。虹が両方向に流れているのがわかるはずだ。これは、人には理解しにくい時間の側面である。すべては間断なくひとつの方向に流れていく、と人は考える。本当は過去から来るものと未来から来るものが出会っているのに気づかない。時間はさまざまな円であり、さまざまな方向に回っていることを知らない。この秘密を理解して、現在虹のなかで互いにぶつかりあう流れを識別せよ」(『新しい宇宙像(Ein neues Modell des Universums)』)

類似性の思考

両極性の世界では、因果性はできごとを解釈するための意識の観点であり、左脳の思考法である。前述したように、科学の世界像は左脳の世界像なので、因果性に固執するのもうなずける。一方、右脳は因果性ではなく類似性の思考をする。類似性とは、因果性とは反対の思考法で、因果性の偏りをならすためになくてはならないものだ。因果性と類似性の両方がないと、両極性の世界が有意義に解釈される座標軸にならない。

自分のモデルのある部分は

見えないもしくは見たくないという気持ちが働く。この、意識されない部分が影だ。影は病気の症状に体現されて、その存在を示す。症状を解釈するために時間や過去の概念は要らない。原因を過去に求めれば、本当に大事な情報から離れてしまう。責任は自分にあるのに、それを原因に転嫁するからである。
 症状の意味を考えれば、自分のモデルの領域がわかる。過去を探れば、このモデルがさまざまな形で現れているのに気づくはずだ。ここからすぐに因果的つながりをこじつける必要はない。それらは、ちょうどよい頃合いに平行してあらわれた、同じ問題領域のできごとに過ぎない。子どもは問題の実現に親や兄弟や先生を使い、大人はパートナーや子どもや同僚を使う。外的な条件が人を病気にするわけではないが、人はあらゆるものを使って病気になる。病人が身の回りのものごとを原因にしてしまうのだ。

時間的特質

大きな問題があれば、ふつう意識して対処するのでそれですむ。一見害のなさそうなもろもろの小さなことがらのほうが、心から追い出した問題領域を爆発させやすい。風邪、悪心、下痢、頭痛、胸やけ、傷といったものはきっちりとあらわれる。そのとき何をしていたか、何を考え、何を空想していたかを知るのは大事だ。これらがどんな関係にあるかを考えて、心にひらめいたアイディアを追求してみる。ささいなことだとあわてて退けないようにしたい。
 これには練習と、自分への正直さが必要だ。もっとはっきり言うと、自分自身を疑ってかかること。自分のことは自分がいちばんよく知っているから、すぐに判断できるよ、という態度の人は、自己認識の上であまり成果を得られない。

私たちは体の症状を精神的に解釈する。

それによって、これまで気づかなかった領域に目を向け、事実として受け止められるようになる。体にあらわれたものは、かならず心にもある。だからといって、すぐに何かを変えたりしめ出したりする必要はない。見たものを心に受け入れること。それでじゅうぶん。その領域を否定すれば影になるのだ。

何かを変化させようという意図は、反対方向に作用する。

早く眠りにつこうとすれば、なかなか眠れなくなる。眠ろうなどと考えなければ眠れるものだ。何も考えないということは、妨げようとする意志とどうしてもやろうとする意志の中間である。中庸は新しいことを可能にする。闘い、駆り立てる人は目的を達成できない。病気の症状を解釈するとき、これは悪性だと感じるなら、自分の価値判断にとらわれているしるしである。ことばも物もできごとも、善い悪いの価値を持たない。価値判断は見る人の心にのみ生まれるものである。

相反するふたつの極の共通性

あるテーマが極端な形で現れた場合、本人が問題を持っていない、もしくは問題を意識している、ということではない。きわめて攻撃的な人が不安を持っていないわけではないし、性を強くアピールする人が性的問題をかかえていないわけではない。ここでも両極的にものごとを見ることだ。なにかが強くあらわれていれば、そこには必ず問題がある。はにかみやもお山の大将も、どちらも自分に自信がない。臆病者も無鉄砲者も、心には恐怖がある。問題がなければ、両極端の中間となってあらわれる。あるテーマが強く出ていれば、まだ解決されていない問題があるのだ。

決断すると解放される。

慢性化した葛藤はたえずエネルギーを奪うので、気力もモチベーションもなくなり、諦念に似た心情になる。ところがひとたび決断して片方の極に到達すれば、エネルギーが自由になるのを感じるはずだ。感染症を克服して体ににわかに力がつくように、心も葛藤から抜け出して気力に満ちあふれる。問題と対決することによって学び、矛盾するふたつの極と取り組むことによって自己の限界を広げ、意識をはっきりさせたからである。

人は強くなり、成熟して病気を後にする。

私たちを強め、能力を高めてくれるのは難題だけなのだ。

肉体的な病気や苦痛は、すべて意識内で起こっている。

《精神》と《身体》の差異は、投影される場所のちがいだけだ。愛の病にかかれば、その感情は体ではないもの、つまり愛に投影され、扁桃炎の患者の場合は喉のあたりに投影されるが、苦しみを感じるのはどちらの場合も心である。物質である体は、痛みが投影される場所であって問題が発生する場所ではない。だから問題がそこで解決されることもない。体は、よりよい認識を得るためのすぐれた補助材にはなりうるが、解決を見いだすのは意識である。体の疾患のプロセスは問題処理の象徴で、そこから学び取ったものは意識を豊かにする。そのため、病気を克服すればかならずそのあとに轍を残す。

アレルギー=物質化した攻撃性

アレルギー体質の人は次の点について考えてみよう。

  1. 意識の中に攻撃性があることがいやで、体にその処理を押しつけるのはなぜか?
  2. 直面できないほど大きな不安をかかえているのは、人生のどの領域か?
  3. 自分のアレルゲンはどのテーマを示唆しているか?――性、衝動、攻撃性、生殖、不潔(人生の暗い側面という意味で)など。
  4. まわりに力をおよぼすために、どのくらいアレルギーを使っているか?
  5. 愛、つまり他をなかへ入れる能力について、どう考えているか?
呼吸――命の融合

呼吸に関係する障害があれば、次の点を考えてみよう。

  1. 息をのませるものは何か?
  2. 受け入れたくないものは何か?
  3. 与えたくないものは何か?
  4. 接触したくないものは何か?
  5. 新しい自由に踏み入るとき不安を感じるか?
目の病気
  1. 見たくないものは何か?
  2. 主観性が強くて自己認識ができないのではないか?
  3. できごとのなかに自分自身を見ているか?
  4. 見たものを見解の形成に利用しているか?
  5. ものごとの輪郭をはっきり見ることに不安を感じていないか?
  6. 物事をありのままに見ているか?
  7. 目をそむけたいのは自分の姿のどの部分か?
頭は痛みに対する反応が早い。

頭痛を感じたら、思考がまちがっているか、正しくない場所に思考を使っているか、怪しげな目標を追っていると思えばいい。

思考することは問題を処理することだ、

フロイトがすでに指摘している。思考は行動よりも危険が少なく、拘束されない。しかし、思考を行動の代わりにするわけにはいかない。行動が思考を実現するべきである。人が体を持っているのは、これを道具に使って実現するためだ。実現しなければエネルギーは流れない。

甲殻類の動物から殻を取り去ってしまうと、

傷つきやすい弱い生き物になる。自分の内側になにひとつ入れまいとする人は、たいていきわめて感じやすい人だ。「ごつごつした殻のなかにはやわらかい種が入っている」ともいわれる。しかし、傷つきやすい心を甲皮によって守ろうとすれば、傷つくことはあまりなくなるかもしれないが、愛情にたいしても盾を作って遮断してしまう。愛情とは自分を開くことなので、守ることとは相容れない。甲皮はだんだん窮屈になって心をしめつけ、不安が肥大する。そうなると、いつしかこの悪循環を断ち切って、心に傷を受ける必要が出てくる。ひとたびそうすれば、心は傷ついてもまた立ち直ることがわかる。

パートナーとの問題

目はものを見る器官だが、自分自身を見るには鏡がいる。男は心の中にある女性的なもの(これをユングはアニマと呼んだ)を、具体的な女性に投影しなければ認識することができない。女性についても同様だ。影には層があると考えればいい。とても深いところにあって不安を感じさせる層もあれば、表面のすぐ下にあって、消化され認識されるのを待っている層もある。自分の影の上層部分と同じところにいる人物に出会うと、恋に落ちる。相手の人物は、実は自分の影の一部なのだ。
 他の人の性質が気に入ったり我慢ならなかったりすることがあるが、それ原因は自分の内部にある。知って心地よい影の部分を投影した人に会えば愛となり、影の底のほうにあって認識する用意のできていないものを投影した人に会えば反発となる。異性に魅力を感じるのは、自分に欠けているものだからである。異性に不安を感じるのは、自分の知らないものだからである。パートナーとの出会いは、自分の心のなかにあって認識されていない側面との出会いである。自分の心の影の部分が他人に投影されるのだということがわかれば、パートナーとの問題を新しい角度からながめることができるだろう。パートナーとの問題は、実は自分自身がもっている問題なのだ。

死とは、自我の優位を求めるのをやめてなるがままに任せよ、

という合図にほかならない。死がおびやかすのは自我であって、人間ではない。自我にしがみついている人間にとって死は闘いだ。オルガスムスは、自我を解き放つよう求めるので、やはり小さな死である。それはなぜか。オルガスムスとは、自我の境界を開いて自我と他我がひとつになることだからだ。自我を固守し続ける人はオルガスムスを体験できない(これは寝つきにもそのままあてはまる)。ここで重要なのは、死とオルガスムスと月経の共通点は献身、つまり自我の一部をささげることである。

妊娠中の問題

 妊娠中に出るさまざまな問題は、子供に対する拒否のあらわれである。こう言うと当事者の強い反発にあうかもしれないが、自分自身を知るためには、これまでの価値基準を捨てて誠実になる必要がある。よい人間であるためには特定の行動様式以外受け入れられないと思っていると、この基準にあわないインパルスをすべて抑圧してしまう。抑圧されたインパルスは体の症状としてあらわれて、誠実さをバランスさせようとする。

症状の全体像と心の問題を深くみていくと、

人生は《受け入れる》と《解き放つ》のふたつの極のあいだを揺れていることがわかる。この二極を《愛》と《死》に入れ替えてもいい。《受け入れる》と《解き放つ》のリズムを身につけるのが人生だ。片方はできるのにもう片方ができない場合と、両方ともできない場合とがある。

両極的な存在のなかで、生命は動きと変化としてあらわされる。

片方の極だけを生きようとすれば、前に進まなくなり、死にいたる。不変のもの、永遠に存在しつづけるものは、両極性の彼方にしかない。そこへ行き着くためには、変化に身をゆだねることだ。変化が私たちを不変へと導いてくれる。

心の手入れは

体の手入れよりもずっと大事だということを忘れないようにしたい。なぜなら、体はいつか消滅するが、心はそうではないからだ。

人生の方向や基準は時とともに変化する。

あるとき正しかったものが、やがて正しくなくなる。ところが人は過去の実績を基準としていつまでも守ろうとする。赤ちゃんがおむつをしているのは当然だが、それを基準にして5歳児の夜尿症を正当化するわけにはいくまい。
 変化の必要性に気づかずにすごしてしまうことは多い。事故にあった人々はもちろんそれに気づかず、それまでの道をまっしぐらに進もうとしていた。古い基準を捨てて新しい進路を取るべきだということを頭から追い払ってしまった。これまで進んできた道が知らないうちに合わなくなる。けれども疑問を投げかけて道を変えるだけの勇気がない。変化は不安をともなうので、ほんとうは変化を望んでいても自信がない。古い習慣からぴょんと飛び出したいという望みを不安が押しのけてしまう。この実現されない望みが、外側からという形で体験される。つまり軌道から放り出される。この例では交通事故によって。

中毒症

 「求めなさい、そうすれば見つかるから」と福音書に書かれている。ところが、途中で試練や危険、艱難や混乱に負けてしまうと、中毒になる。途中で見つけたものに本当の目的を投影されて、そこで追求を打ち切るのだ。補助食品で空腹をいやしたつもりになって、空腹が刺激されただけだということに気づかない。ほんとうはさがしつづけるべきなのに、目的を見失ったことを認めない。不安や心地よさに引き止められて途中で足を止めれば、そのまま中毒になりかねない。
 中毒とは、新しい体験をおそれる臆病心だ。人生を旅と考えて歩み続ければ、中毒になることはない。心をうっとりさせる対象は誰にでもある。だが、問題は中毒の対象ではなく、人の心がぬくぬくとそこにとどまってしまうことにある。

自分を改善するとは、

あるがままの自分を見ることだ。自分を認識するとは、自我を知ることとはちがう。自我の自分に対する関係は、コップ1杯の水の海に対する関係と同じだと考えればいい。自我が人を病気にする。健康への道は、自我から脱して自分に向かうこと。束縛から自由へ、両極性から単一性への道だ。ある症状から、何かが欠けているために単一性に到達できないことがわかれば、欠けているものを見えるようにして、自分のなかに取り入れるだろう。私たちの解釈を読んで、ふだん目にとまらなものがみえるようになってくれればと思う。いったんそれが目にとまったら、見失わないように、もっと正確に見るようにすればいい。つねに注意深く見るだけでも、抵抗を排して愛を育て、見つけたものを統合させるのに役立つ。影を見るとは、影を光で照らし出すことを意味する。
 よくあることだが、症状のなかに見つけた性質をすぐに捨てようとするのはよくない。自分の中に隠れた攻撃性をやっとのことで見つけたのに、すぐ捨ててしまっては元も子もない。影になって不健康にさせるだけだ。攻撃性があることを知るのは健康に通じる。目をそむけたからといって、その性質がなくなるわけではないことを知っておいた方がよい。