毎日「ゴキゲン♪」の法則

自分を成長させる読書日記。今の関心は習慣化、生産性、手帳・ノート術です。

日本人は朝方・夕方に真実を見る☆☆

御力

御力

引き続き春日大社宮司・葉室頼昭さんの本。書いてあることは基本的に同じ。だが、ところどころなるほど、と思う話がいろいろあり面白かった。
一番納得したのは日本はイエス・ノー、二者択一の文化ではないということ。この世の中にはイエスかノーかでは判断できないことがいっぱいあり、イエスでもノーでもない白と黒の中間、そこに真実があるのだそうだ。戦後日本の教育はアメリカにならってイエスかノーかを迫られるようなやり方になったが、日本人は本来その中間に真実の答えを見る民族で、それが素晴らしい考え方だと書かれていた。確かに、日本人は煮え切らない、玉虫色の回答をする、NOと言えないと今までさんざん言われてきたが、そういう国民性なんだから恥じることはないのかもしれない。著者は本の中で繰り返し「外国人は外国人、日本人は日本人」と書いている。おそらく、日本人はあらゆるものの中に神を見出すことができるし、極端な言い方をすればどの神を信仰しても構わない、というおおらかさがあるのだと思う。それが自分の信仰する神が唯一絶対で他の存在を許さない、また神と自分は一対一という厳しい宗教と違い、民族性にも表れているのだろう。どちらがいいというのではなく、違っているのだ。日本人は他の民族に比べて情緒を感じ、移ろいゆくものを美しいと思う。それも端的に表したのが「日本人は朝方・夕方に真実を見る」という言葉だと感じた。

以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。

  • 目標と目的、知識と教養は違う

 ある野球の監督が語っておられたことですが、高校でみんな甲子園を目指して練習しているのだけれど、甲子園に行くのが目的ではない。それはあくまでも目標だと言われるそうです。甲子園を目指すために厳しい練習をする。その厳しい練習に耐え抜いて、忍耐力のある素晴らしい人間を育てるということが目的だと言われるのだそうですが、私もまったくその通りだと思います。というのも、現在子供たちの中には受験勉強をして、いい学校に入るのが目的だと思っている人がたくさんいます。しかしそれは全くの思い違いであって、勉強していい学校に入るということはあくまでも目標であって、目的はそれだけの知識、教養を身につけて、社会に出た時、世の中の幸せのため、また人々のために役立つというとが目的なのです。その目標と目的というものを混同しているところに、現在行われている教育の大きな間違いがあるのではないかと思うのです。

  • 陰徳を積むことの大切さ

 私も小さい頃より母親から「陰徳、陰徳」と耳にタコができるほど聞かされてきました。友達のためになると思い、何か一生懸命するのに、友達がそれに全然感謝もしない。そのことを母に言うと「それでいいんだ。感謝されない方がいいんだ」とよく言われました。そのほうが徳というものが自分の体の中に積まれてくる。(中略)
 例えば、大きな努力で小さな結果を求めることも大切なことです。どういうことかというと、Aという努力をして、それで百万円儲かるとしたら、そのAの何倍も大きなBという努力をするのです。そうすれば百万円以上の余徳が返ってくるけれど、逆にAよりも何倍も小さい努力、Cという努力で百万円を儲けたら、これは災いとなって返ってくるというのが世の中ではないでしょうか。確かにBという大きな努力の割にもうけは少ない。しかしその分徳を積んで続いていくのです。これが大きな努力で小さな結果を求める日本人の祖先が昔からやってきた本当の生き方ではないかと思うのです。

  • まず今やるべきことをキチンとする

 二宮尊徳の有名な言葉に「この秋は雨か嵐か知らねども、今日の勤めの田草取るなり」というのがあります。これが人生の基本だと思うのです。もし未来のことをあれこれ考え、今、田の草を取っても秋になって嵐が来たら稲が駄目になるのではないか。どうせ駄目になるのなら今草を取っても意味がないと考えるのであれば、それはまったく滅びいく人の考え方です。そうではなく、あれこれ先のことを心配するよりも、現在やるべきことをキチンとする。あとはすべて神様にお任せするという生き方。これが本当の生き方であり、そうすれば苦しみが幸せになってくると思うのです。

  • 取り越し苦労と持ち越し苦労

 この世の中で神様を侮辱する一番のことは何かというと、取り越し苦労と持ち越し苦労だといわれています。いつまでもくよくよ悩んでいるとか、あるいは未来のことをいろいろ心配したりする。これはなぜかというと、神様にお任せすれば神様は何でもご存じなのだから必ずよくしてくださる。これが神を敬うということなのに、過去のことをいつまでも思ったり、未来を心配するというのは神様をまったく信じていないということになります。

 病気をしたらこれから先、症状はどうなるのだろうか、もっと悪くなるのだろうかといろいろ心配する。それが取り越し苦労で、そういうことではなくて、すべて病気のことをありがたい、自分の幸せに繋がる神様のお導きだと考え、順応していけば病気そのものが幸せに変わっていくのです。