毎日「ゴキゲン♪」の法則

自分を成長させる読書日記。今の関心は習慣化、生産性、手帳・ノート術です。

深い。でも読みにくい…☆☆



先日読んだ『考えない練習』が面白かったので、著者・小池龍之介さんの本を図書館で予約したら、すぐに借りられたのがこの本。

タイトル通り沈黙することで“自分が、自分が”という欲から抜け出すことを勧める本だ。仏教の基本を一般の人に理解してもらうために、やさしい言葉で説き、ほのぼのしたイラストもついているのでとっつきやすい。
しかし、ひとつだけ問題が。


なぜかはわからないが、文体に癖があるのだ。文語調なのだが、明治の文豪が書いたようなかな遣いではないし、ところどころ奇妙な印象を受けるところもある。先に読んだ『考えない練習』では、とても美しい日本語だったので、書けないわけではないと思う。申し訳ないが読みにくい。
すごく深いことが書いてあり、うんうん、と思うのにすんなり心に入ってこない。アマゾンの書評は評価が分かれているが、文体に関してはほぼ全員一致して残念だと書いてあった。私も本当に残念だ。機会があれば普通に書き直してもらえるとうれしい。

心をいかにして飼い慣らすか、そして濃すぎる「自分」から解放されて晴れやかに生きるかを教えてくれる本。文体の分読むのに少し時間はかかりますが、“道場破り”の気分なら読めるかも。


以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。
【お断り】このブログでは、メモの部分はできるだけ本の記載通りにするよう心がけていますが*1、この本の場合そのままでは私自身が読み返せないため、表現を変更してあります。小池さんご自身の表現とかなり変わっていることをご了承ください。 

言い換えますならば、何でも「正直」に言い放てばいいというものではないのであります。(P32)

正論は正論として、涼しく聞き流してあげることが、自分濃度を薄める訓練にもなることでしょう。「そうですねー」とか「さようですか」と、イイカゲンに相づちを打っておくのがよいでしょう(P47)

謝りたいから謝らない(P54)

謝罪デフレーションを予防するポイントは、「自分が謝りたい時」にそのまま謝ってしまうのではない、というところにあります。楽をしたいという欲望の業に操られて、他人に「すいません」なんて無意味な呪文を押し付けるのは、「謝罪」ではなく新たな「加害」でありますゆえ。
「すいません」と言いそうになったら、「あ、自分は謝りたいって思っているみたいだぞ、でも本当にここで謝る必要があるんだろうか」とワンステップ置いてみるのはいかがでしょうか。そうすれば、本当は自分が謝ってごまかしたいと思っているだけで、相手は謝罪なんか求めていない、ということが見えてくるものであります。
謝ってごまかすよりも、実際に自分が変わることの方が、はるかに相手に対する罪滅ぼし=謝罪になろう、というものです。

できる限り、ゆっくりスロースピードで話す(P56)

そもそも早口とは、「早く喋りたくてしょうがないよー」ということ。ではどうしてわざわざ早口で喋りたいかというと、「少しでも早く自分にとって気持ちよいことを喋りたくて我慢できないよー」という具合に、欲望に駆り立てられているからであります。
そのような状態は、食欲にまくしたてられ、ろくに噛みもせずに大食いをしてしまうのに似ています。それを見て美しいと感じる人がいないのも、道理であります。
ゆっくり話すということの中には、ごく自然に、欲望を封印する作用が働いているように思われます。ゆえにスローなお喋りには、気品やストイックな美しさが伴うのでしょう。

悪口は“三毒”揃っている(P67)

貪欲ヨクボー・瞋恚イヤイヤ・愚痴マヨイ、が仏道でいう三毒ですが、悪口は「気持ちよくなる」「怒りのエネルギーを充電する」「そのことの害悪に気づかず混乱し、心がさまよっている」という具合に、三拍子揃っています。

批判=自慢(P69)

つまり「批判」とは、自分の素晴らしさを自慢するセリフの、巧妙に隠されたヴァリエーション。「批判」の名を借りて「自分、自分」というオーラを剥き出しにしてしまうことで、ここでもまた自分濃度が濃くなってまいります。

簡単貪欲ヨクボー撃退法(P88)

ヨクボーは人を駆り立てて、むくつけき粗暴な雰囲気へと染めていきます。のみならず、ヨクボーは、使うと経るどころか、潜在意識の中で増殖するのであります。使うと増えちゃうのが、カルマの特徴です。その恐るべきヨクボーをシラケさせてしまうためには、自分の中に棲み着いているヨクボーをまじまじと観察してあげることが大切です。
自分が何かしようとしているのを、他人がじろじろ観察していたら恥ずかしくなったり、シラケたりして、やりたくなくなるもの。ヨクボーもそれに似て、他人事のように自分の心をじろじろ眺め、ヨクボーに駆られている自分の心に「あ、恥ずかしい」と感じさせてしまえばいいのです。
この、自分を他人事のように眺めてみることで、感情が客観視されて落ち着く、というプロセスをさらに効果的に作り上げたのが仏道の方法です。
その技法を仏道では「念」を入れるとか、「念じる」と言います。
「念」のやり方自体はきわめて単純。ヨクボーをはじめとする好ましくない気持ちが湧き出てきた瞬間に、自分の中を観察し、「あ、ヨクボーが生まれた」と意識を集中すれば、不思議なことにヨクボーはなりをひそめるものなのであります。簡単ヨクボー撃退法。
仏道の心理分析の立場から見ますと、ヨクボーや他の様々な感情に流され翻弄されるのは、実は、人がその感情にちゃんと意識的、自覚的ではない時だけです。「自分は怒ってる、怒ってる、怒ってる」と意識しながら、怒って人を殴れるような人はいませんし、「私はヨクボーに流されてる、流されてる」と意識を集中しながらヨクボーに流される人はいないもの。言わば、感情への集中力あるいは観察力を養っていないから、感情派は恥ずかしげもなく猛威を振るうのです。

空白の時間は大切な栄養素(P95)

仏道の視点から見れば、人がアレコレとクルクル考えたがるのは、「今、ここ」に集中するのが嫌で落ち着きなく動き回りたい、動き回って貪欲ヨクボー・瞋恚イヤイヤ・愚痴マヨイのカルマを増やしたい、という心の習性の奴隷になっているだけ。言わば、エネルギーの浪費、無駄な情報処理。何も考えない空白の時間こそ、人にとって大切な栄養素です。

幻滅のススメ(P111)

仏陀は『法句経』17章227節にて、「アトゥラよ、これは昔にも言うことであり、今に始まることではない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、少しく語る者も非難される。世に非難されない者はいない」とおっしゃっています。つまり、何をやっていても必ず、誰かから非難されてしまうのは、ごく自然なことだということです。
(中略)
そもそも、「非難」に対し、いちいち腹を立てたり傷ついたりするのは、「自分はこれだけしっかりやっているのだから非難されないはず」と、期待や幻想があるからであります。しかし、この期待も幻想も、しょせんは甘え。
そこで仏道の立場からは、世の中は非難に満ち満ちているのだから、「非難されてもそんなの当たり前だよね」くらいの感覚で幻滅しておくことを、推奨する次第です。

自分の心・感情を切り刻んでみる(P118)

感受・感覚は「楽キモチイイ」「苦キモチワルイ」「不苦不楽ドッチツカズ」の3種類のみ。そしてそれらはたいてい、貪欲ヨクボー・瞋恚イヤイヤ・愚痴マヨイの心と一緒に、私たちの心の中で生まれています。
ゆえに、まずは、ヨクボーに関する苦・楽・不苦不楽、イヤイヤに関する苦・楽・不苦不楽、マヨイに関する苦・楽・不苦不楽の9種に分けて、ご自身の心や感情を切り刻んでみましょう。
(中略)
そうすれば不快感の魔法は解け、「ただの音」「ただの文字」「ただの映像」に戻ります。

「身近」とは幻想(P122)

「自分たちは同じ」「分かり合えるはず」という誤解を前提とするから、分かり合えないと感じた時にがっかりしたり、相手を非難したくなったり。互いを期待値と要求で縛り合いながら不満を溜めてゆくことで、人間関係が歪んでゆくように思われるのであります。
だとすれば「身近」という幻想を、幻滅させ解毒させるのがよいでしょう。
(中略)
人は、赤の他人に対してはあまり多くを望まぬもの。お互い他人であって完全には分かり合えないし、自分の望むことをそのまましてくれるはずがない、と思ってほどほどに幻滅しておいた方が(ほどほどに、という匙加減が大切なのではありますが)、思いが通じた時や何かうれしいことをしてもらった時のハッピーさ加減も大きくなろうというものです。

ドッチデモイイ解毒剤(P126)

僕らを決して幸せにすることがない、欲望。その解毒剤は何かと言えば、「ドッチデモイイ」「ドウデモイイ」。
ドッチデモイイ、ドウデモイイ、などというとグウタラ・無味乾燥・やる気なし、というイメージが浮かぶかもしれませんが、それは大いなる誤解。ドッチデモイイ、ドウデモイイ、からこそ、深刻な場面でもジョークを言ったりして場をなごませることができますし、しかめっ面にならずにもすみます。それどころか「ドッチデモイイ」と洗い流し、何事をも受け入れられるようになった姿勢は、しなやかで優美に見えます。

喜怒哀楽vs繊細さ(P128)

私の師僧によるお言葉を拝借すると、喜怒哀楽によって得られる刺激は、ファストフードのきつい味つけ。それに慣れてしまうと、洗練された上品な味つけの料理が、「無味乾燥で不味い」としか感じられぬもの。
反対に、こだわりや執着を少なくするほど、素材の持ち味、すなわち洗練された繊細な感覚に対するアンテナは研ぎ澄まされて参ります。

ドウデモイイヤーの潔さ・軽やかさ(P132)

私が申します「ドウデモイイヤー」は、投げやりに思うことではなく、「どうなっても最終的には受け入れられるよ」という潔さ。軽やかさ。それが結果としては、互いの関係を大切にすることになり、ひいては相手に対する優しさにもつながるのであります。

*1:一部自分なりのルールで漢字・ひらがなを変えている場合があります。文中の引用はそのまま引用しています