毎日「ゴキゲン♪」の法則

自分を成長させる読書日記。今の関心は習慣化、生産性、手帳・ノート術です。

メカニズムがわかれば怒らなくなる☆☆

もう、怒らない
小池 龍之介
幻冬舎(2009/10)
¥1,365

すでに何冊か読んでいる、小池龍之介さんの本。人気が高いらしく、図書館で予約してずいぶん待った。
「怒らない」は私のテーマで、以前プロジェクトにしていたくらいだ*1。怒らないですむなら、と思って読んでみた。

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著者は僧侶だが仏教ではなく仏道を実践されている人なので、一般的な“仏教”とは少し違い、瞑想を中心として自分の煩悩をいかに解放するか、というのが基本テーマ(だと思う)。

仏道の教えをわかりやすい言葉で教えてくれるので、発見があり面白い。というのも、非常に科学的な面があるからだ。
以前読んだ『考えない練習』で、脳科学者の池谷裕二さんが対談されて興味深くいろいろと聞かれていたくらいなので、専門家から見てもそういう面があるのだろう。ある意味とてもシステマティックなのだ。

その辺が、好みの分かれるところかもしれない。Amazonのレビューでは、あまり評価が高くなかった。私は、先に著者の別の本を読んでいた分☆2にしたが、もしこれが初めて読んだのだったらもっと☆は多くなっていたと思う。


中でも、怒りの“第3の扱い方”にはなるほどなあと思った。普通、怒りは抑圧してため込むか、体に悪いからと爆発して発散させるかのどちらかになる。先に書いた私の「不平不満を言わない」プロジェクトが途中になっているのも、この「ガマンは体に悪い」という気持ちがどうしても拭えなかったからだ。

だが、仏道的にはどちらも誤った対処法なのだそうだ。正しくは、

怒りの感情を客観視して穏やかに受け入れる

のだという。具体的な方法は詳しく紹介されている。「これがわかっていればプロジェクトが完遂できたのに」と悔しく思った。第3の方法がわかったので、また再チャレンジしたい。


インスタントな方法を求める人には合わないかもしれませんが、心穏やかに生きて行きたい人にはぜひ一読をお勧めします。


以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。

何も考えずただやるのが、一番疲れない(P22)

仏道ではしばしば、「食べたいと思う必要はなくただ食べればよい」「歩きたいと思う必要はなくただ歩けばよい」などと、煙に巻いたかのような言い方がされます。仕事についても同じことが言え、「仕事をしたい」とか「仕事をしなくては」などと思うよりも、何も考えずただやる方が、ずっと集中して充実した仕事ができるのです。
(中略)
ただ「仕事をする。無心になって働く」という心が空っぽの状態、「空」の状態が維持できれば、この上ない充実感を味わえるとともに、仕事へのモチベーションを絶えず維持することが可能になります。

「自分にご褒美をあげる」のは逆効果(P25)

そもそも、どうしてこれが終わったらご褒美をと、頭に思い浮かんだのでしょう。それは、目の前の仕事をやりたくないからです。ものすごく楽しい仕事、とてもやりたい興味のある仕事だとすれば、そのものが強い充実感を約束してくれるはずなので、終わったあとに、自分にご褒美と称して、海外旅行に出かけたりとか、お酒を浴びるように飲んだりとか、おいしい料理を山ほど食べたりとか、そういったことをしたくなることはないはずです。仕事に対して、何かしらのストレスを感じているからこそ、そのストレスをごまかすために、さまざまな欲望に駆り立てられてしまうのです。
(中略)
仕事にやる気を出すためにと、よけいな工夫をして欲望のエサを与えることは、長い目で見ると、仕事へのモチベーションを低減させる性質を持っています。したがって、そのようなよけいなことは頭に考えさせずに、ただ単に、仕事を一瞬一瞬集中してこなすことが肝要なのです。

雑念に流されない方法(P27)

そのように取り組もうとしても、つい、「この仕事に成功したあとであいなるといいなあ、こうなるといいなあ」といった欲望雑念に流されてしまうこともあるでしょう。大切なのは、仮にそのように流されてしまっても、できるだけ早く気づいて、意識を再び目の前のやるべきことに、強引にでも釘づけにすることです。
それでもまた逸れてしまったら、その欲望を強引に押し退けて、ただやるということへ意識を差し戻すことを繰り返します。そうすると、徐々に心が慣れてきます。徹底的に集中している瞬間が訪れたら、その時の爽快感や充実感をよくよく感じ取り、心の深い部分に刻み込むこと。「今後ともこんな空の状態で仕事をしたい」と心にしっかりと刻みつけておきましょう。

『自説経』31章32番のことば(P28)

※訳は著者によるもの
「立つべき時に気力がなく、言葉では立派なことを言うのに怠けていて、希望なく常に意欲が損なわれ、怠惰でものうげな人は、智慧の道を知らない」

ストレスは食欲に転化しやすい(P34)

食事中は、「食べる」「飲む」という手っ取り早い欲望の回路がすぐ目の前にあるために、すべてのストレスが判で押したように食欲に向かって押し寄せることとなるのです。
(中略)
いったんこのようになると、食事は、「現実に食べる行為」というよりも「脳内ストーリーの中でストレスをごまかす自慰行為」になってしまうので、なかなか充足感が訪れません。
さらに、もともとは「これだけで満足できるはず」と思っていたのに、「もっと欲しい」とあっさり翻ってしまう、コントロールのきかない心に対してがっかりすることも、新たなストレスになります。そして、その苦痛を、もっと食べることで解消したい、といったかたちで、欲望がさらに増すのです。
こういった明らかなストレス以外にも、食卓の上が散らかっているとか、ダイニングルームが汚れているとか、キッチンが乱雑なままとか、そういった潜在的な「気になる」ストレス要因があると、食欲は増幅します。

「食べる」ことに自分を忘れさせる効果がある(P38)

「たくさんのものを口から胃へと詰め込む」行為自体に、現実の自分を忘れさせる効果があることを、見逃してはなりません。食べている瞬間、血液が胃の方へと集まって頭がぼーっとし、あまり考えごとをしなくてもよくなることで、一時的にストレスをごまかした気になれるのです。
(中略)
同じ「自分を忘れる」のでしたら、「今やるべきこと」に没頭することで自分を忘れるのが得策でしょう。

怒りは嫌なことを一時的に忘れさせる(P58)

怒りの感情は、電気ショックのような強い刺激を心に与えるからです。怒りの感情におぼれていると、その間、それは前に感じていた諸々の嫌なことやストレスが、麻痺させられます。苦しさ、充実感のなさ、つまらなさ、みじめさなどのストレスを一時的に感じなくなることに心が喜びを感じ、怒りが心身にダメージを与えていることに無自覚になってしまうのです。
そのため、心は「怒った方が得だ」と勘違いをします。この勘違いは強力なプログラムとして心に組み込まれるので、「ムッとするのはよくない」といううわべだけの知識では、弱すぎて、とても太刀打ちできません。

生きることは(P61)

現時点の自分はどのような目にあうのがふさわしいのかを朝から晩まで思い知らされるゲームのようなものです。

淡く美しい日本的情緒も怒りの仲間(P69)

日本では古来、悲しい、寂しい、虚しいなどの淡い感情は、情緒があって美的であり、必ずしも悪いものではない、と考えられてきました。
人間は、物事を複雑化するのが好きなので、感情をとても複雑に考えてしまいます。しかし実際は、これらのどの感情も、否定的な怒りのエネルギーに駆り立てられているという点ではまったく同じです。
「悩み」にせよ「寂しさ」にせよ「悲しさ」にせよ、「殺したいくらい腹が立つ」にせよ、潜在意識に蓄積されるエネルギーの種類は同じですし、それらの感情を作ることで発生する生化学的な不快物質*2の種類も同じなのです。

怒りの第3の道(P77)

怒ってしまった時は、抑圧でも発散でもない、第3の道を選びましょう。それは、怒りの感情を客観視して穏やかに受け入れるという道。自らの心を「あーあ、怒っているんだね、君」といった具合に見つめて、心が怒りに占領されている有様を客観視する方法です。
すると、「見つめている自らの心」と「見られている怒り」とが切り離されて、あたかも急激に酔いが覚めたかのように怒りが鎮静してまいります。
(中略)
他人の言葉や口調に腹が立ってきたら、その怒りの中身を即座にカギカッコに入れ、《「あんな言い方しやがって!」……と思っている》と心の中で念じるのです。
怒りの中身をカギカッコに入れ、《……と思っている》と唱えていると、その感情が事実ではなく、単に自分の頭の中で作り上げられただけの考えにすぎないことに、心がハッと気がつきます。

3つの煩悩エネルギー(P86)

欲は頭の中で快楽のストーリーが編まれたのに連鎖して生じる煩悩エネルギー、怒りは不快のストーリー展開に連鎖して生じる煩悩エネルギーであるのに対して、迷いは、快楽でも不快でもない、ありきたりの、つまらない、ニュートラルな感覚に連鎖して生まれるエネルギーです。
心は強い刺激が大好きなので、快でも不快でもない、ありきたりでニュートラルな感覚をまったく好みません。

迷いの煩悩エネルギー(無知)のしくみ(P87)

目の前の現実で起きていることや、今やらねばならない仕事などが「ありきたりでニュートラル」と頭の中で感じられた瞬間、「つまらないから無視したい」という迷いの衝動エネルギーが生まれ、意識はフラフラと、「今ここではないどこか」へとさ迷います。ですから、迷いの煩悩エネルギーは、「逃げ」の煩悩と呼んでもよいでしょう。

「迷い」が集中力・決断力を低下させる(P89)

長期的に見ると、意識が目の前の現実からさまようごとに、意識のコントロール力が1回1回、確実に衰えてゆくという弊害もあります。「つまらないから逃げ出す」というパターンが潜在意識に刷り込まれて、次回以降、さらに逃げ出しやすくなる癖がついてしまうのです。これを繰り返すと、決断力が低下して優柔不断となり、集中力を欠いた人格が作られることになります。

意識のコントロール練習のポイント(P91)

逸れること自体、逸れさせるエネルギーが存在する以上は仕方のないことです。とりたてて嘆くべきことでも残念がることでもありません。大切なのは、意識がさ迷った時に、いち早く気づき、力づくでグイッと引き戻すこと。気づくことで自覚力のセンサーが磨かれ、引き戻すことで集中力が磨かれ、意識のコントロール力が、確実に増加してゆきます。

意識と身体感覚を寄り添わせる(P92)

身体感覚にぴったりと意識を寄り添わせることができるようになると、心が頭の中に引きこもれなくなり、無益な思考の回転が止まります。「ありのままの実感」と「頭の中だけの思考」は両立しないので、現実の実感に意識が留まるにつれ、欲や怒りの雑念に意識がさ迷うことが減少するのです。

人は「我」の少ない人が好き(P93)

誰もが、自分自身の「我」はかわいくてしょうがないのですが、他人の「我」は大嫌い。ですから、「我」が薄まっている相手に好感を持つのは、ごく自然なことなのです。

物事が退屈なのは、きちんと観察しないから(P94)

何かがつまらなく思えるのは、慣れてしまって、それをきちんと観察しないからです。自覚的に意識を総動員してしっかり観察するようにすれば、「つまらない」は必ずや「面白い」に変化します。

『マールキャプッタ経』より(P112)

「マールキャプッタよ、見られ、聞かれ、嗅がれ、味わわれ、触られ、知られる、この6種類の事物に対して、君は見る時は見たままにしておくこと。聞いたなら聞いたままにしておくこと。嗅ぐときは嗅いだままにしておくこと。味わう時は味わうままにしておくこと。触れれば触れたままにしておくこと。知る時は知ったままにしておくこと」
このお経が説いているのは、何か嫌なことを言われたら、それをただ音として聞き取ることに集中して、「なるほどああ音だ、音であることよな」と受け流し、情報処理の編集をボツにしてしまいなさいということです。

心は体の細部で生じては消えていく(P114)

仏道では、心とは対象への反応である、とはっきりと定義しています。その反応は必ず特定の場所で生じるので、心にはそのつど、場所があるということにもなります。そして、心は特定の場所に一瞬で生じては、一瞬にして消え去ってゆくのです。

充実感はそのまま味わう(P146)

せっかくこの上ない充実感を得ても、多くの人は、「ああ気持ちいい、これで仕事がもっとうまくいきそうだ」「この調子ならすぐに仕事をやっつけられるかもしれない」といった、よけいな煩悩を作ってしまいます。そうすると、実際には千の充実感がそこをかけ巡っていても、百くらいしかその喜びを実感できません。
そうではなく、充実感が発生しているのに気づいたら、いち早くそこに意識を集中させ、その味わいを千なら千ほどそのまま実感するようにしましょう。そのようにして、心の深いところにまで充実感を刻み込むことで、「次からもぜひ繰り返そう」という強い条件づけを潜在意識に与えることができます。
このような善いエネルギーを潜在意識に蓄えること。これが善いカルマ、すなわち善業です。業というと、煩悩の悪いエネルギーばかりと誤解されがちですが、このような充実した幸福感のエネルギーもまた、心にフィードバックされて将来の自分に影響を与えるので、やはり「業」なのです。
悪いエネルギーはそのダメージをしっかり感じ取って、繰り返さぬよう条件づけ、善いエネルギーについてはポジティブな条件づけを自らの心に課すこと。これを日々心がけることで、私たちは成長のためのエネルギーを無限に高めていくことができます。

体の発する苦しみの信号を察知する(P166)

たとえば私たちの体には、胸の軋み、みぞおちがキュウッとする感じ、喉がウググッと詰まる感じ、こめかみが締めつけられる感じなど、たえずさまざまな感覚が生じています。これは、感情に対する心の反応として起こる、体の変化です。
このあらゆる種類の信号をしっかり感じ取ることが、感覚に心をぴったり寄り添わせるということです。
心が身体感覚にぴったり寄り添う習慣がつくと、「今この瞬間」の中に留まりやすくなり、心がしっかり体をコントロールしてくれるようになります。
さらに重要なのは、この習慣がつくと、体が発する苦しみの信号を敏感にキャッチできるようになるということです。
(中略)自分のお腹が、胸が、喉が、こめかみが、今、この瞬間、どんな感じなのか。それを無視しなければ、間違った方向には行かずにすみます。どこをチェックしても楽で爽快なら、その感情は問題ありません。どこかに苦しみが生じているなら、それはやめた方がよいのです。

その場の空気に適応するのがイヤだなあと思う時(P185)

そのようにイヤイヤをする対象は、十中八九、他人が発散している煩悩のオーラです。

*1:正確には「不平不満を言わない」でした

*2:ノルアドレナリンなどのことを、この本ではそう読んでいます