「自分らしきもの」があると思っているから変われない(P96)
自分らしさへの可能性については熱心なのに、「自分をなくす」可能性には目を向けない。自分をなくせば簡単に変わることができる。
若い頃は自分を変えたくて仕方なかったはずなのに、それなりの地位や蓄えができると、変わることを恐れるようになる。若い頃には「変わる」ことはとてもポジティブなものだったのに、ある程度年を取ってからは、ネガティブなことだと思うようになる。
「何でこの俺が」は禁句(P140)
それは「ご機嫌界」で一番の禁句。この「俺」が大概の怒りの原因。
小乗的な「自分探し」と大乗的な「自分なくし」(P142)
自分探しをするよりも、「自分をなくす」方が、はるかに具体的な解決になる。
つまり「機嫌を取る」=「自分なくし」。
「何で俺が」をやめて、相手の機嫌を取ることを考えた方が、人間関係がスムーズに行くことは明らか。しかしこれは大変な修業。だが、人に喜ばれることは間違いない。
(中略)
「自分だけ悟ればいい」という、小乗仏教的な「修業」を目的とするならば、「自分探し」を心おきなくすればいい。
しかし「人に喜ばれたい」という、大乗仏教的な「菩薩行」を目指すならば、「自分をなくし」て人の「機嫌を取る」ことを考えるべき。
(中略)
かなりの苦行であることは間違いないが、この「ご機嫌を取る」ブームが起きれば、少しは住みやすい世の中になるのではないか。
僕滅運動(P144)※正しくは「撲滅」
むずかしいのは、「機嫌を取る」ふりをしながら、ひそかにキックバックを求めてしまうこと。「相手のためにこれだけ尽くしたから、きっとこれだけの報酬を得られるはず」というもの。
残念ながら人間は弱いもので、どうしてもキックバックを求めてしまう。しかし「ご機嫌界」では、「修行が足りない」ことになってしまう。
(中略)
「自分病」を乗り越えて、いかに大乗的な菩薩行である「僕滅運動」に至ることができるか。
利他を目指す菩薩行は、かくもハードなもの。
音楽でも文学でも美術でも、「何かを発表する」という「自分売買」を伴う行為は、すべて「機嫌を取る」ことから逃れられない(P149)
「お客さん」という他者が存在する限り、彼らの機嫌を無視してはいけない。「人に何かを見せたい」という気持ちと、「ご機嫌を取る」という気持ちにさほど違いはない。
比較三原則(P172)※本来は「非核三原則」
“他人と過去と親”、この3つと自分を比較してはいけない。
どんなに辛い時も「そこがいいんじゃない!」と叫ぶ(P174)
「そこがいいんじゃない!」と唱えることで、考え続けて苦しい状態も少し楽になってくる。
「そこがいいんじゃない!」と発声する訓練をしておくと、そう発言した瞬間から、脳が「そうなんだ」と思い始めてくれる。人間はいつも脳主導で動いているように見えるが、このように言葉を無理やりにでも発することで、その0.1秒後に脳がついてくる。
「そこがいいんじゃない!」は自分にとっての念仏みたいなもの。
「不安タスティック!」もお薦め(P177)
不安というものは突然やって来る。その瞬間、「不安タスティック!」と唱えれば、少しは楽になれるかもしれない。