毎日「ゴキゲン♪」の法則

自分を成長させる読書日記。今の関心は習慣化、生産性、手帳・ノート術です。

文化が社会を変えるカギ☆☆☆☆

その記憶があったので、新しい本が出たと聞いて、いそいそと予約して借りて来たのはいいが、読んでみたらめっぽうむずかしい本だった。

『わかりあえないことから』はあくまで個人の話だったのに、この本は「日本がこれから生き残るにはどう意識を変えていけばいいのか。救いはあるのか」という話なんですから。
でも、うんうん言いながら読んでいたら、やっぱり面白かった。


◆目次◆
序 章 下り坂をそろそろと下る
第一章 小さな島の挑戦――瀬戸内・小豆島
第二章 コウノトリの郷――但馬・豊岡
第三章 学びの広場を創る――讃岐・善通寺
第四章 復興への道――東北・女川、双葉
第五章 寂しさと向き合う――東アジア・ソウル、北京
終 章 寛容と包摂の社会へ

冒頭から暗い。日本が衰退していく話だ。

一、もはや日本は、工業立国ではない。
二、もはや日本は、成長社会ではない。
三、もはやこの国は、アジア唯一の先進国ではない(P229・232・233)*1

これを受け入れて、どこに向かうのか、ということがこの本で語られる。
ただ、救いはある。カギは文化であり、著者のホームフィールド、演劇だ。

「なんで日本の存亡の危機に文化、それも演劇の話?」と思うが、実はすごい秘策かもしれない。
文化の専門家に日本の将来のことなんて誰も聞いたことがないからだ。地方創生計画はたいていは、経済や社会のしくみなどから考えられ、文化施策は省みられない。
だが、欧州では予算の5〜10%が割り当てられる重要な施策なのだという。確かに、成熟した社会には文化も花開くと聞いたことがある。衰退期へと向かう日本も、そういう意識に変わる時期に来ているのかもしれない。

 

『わかりあえないことから』でも四国の小学校で演劇を教えている、とあった著者。今は四国学院大学でもカリキュラム策定などから関わっているそうだ。
四国がなぜ演劇に熱心かというと、「本土との間に橋が3本もかかり、子どもたちは否応なく外の世界(=本州)と関わっていかなければならない」という理由があるから。
著者は、四国の置かれる状況を、グローバル化を迫られる日本のひな形だ、という。

地方のあり方を探っていくうちに、人口減少や少子化の問題、いかに人に来てもらうか(移住でも、滞在でも)という地方の悩みに関わっていく著者。

 教育政策のしっかりしていない自治体は、残念ながら「選ばれない自治体」になってしまう。そこにはIターン、JターンどころかUターンさえも期待できない。先進自治体が、地道な教育改革に取り組み始めている理由がここにある(P119)。

子どもにいい教育を、と考える親は多い。移住を決めるカギは環境も含めて「しっかりした教育を受けられるか」だという。
そこで、学校で演劇を学ぼう、という流れが多く生まれているのだそうだ。

 

しかも、入試改革で「詰め込み型ではなく、自分で考えられる学生を採用する入試に変更を」という方針がすでに国から出ている。

 要するに、いまの流行り言葉で言えば「地頭」を問うような試験に変わっていくということだ。これは、短期間の、知識詰め込み型の受験勉強では対応できない。小さな頃から、文科省も掲げるところの思考力、判断力、表現力、主体性、多様性理解、協働性、そういったものを少しずつ養っていかない限り太刀打ちできない試験になる。このような能力の総体を、社会学では「文化資本」と呼ぶ。平易な言葉に言い換えれば「人と共に生きるためのセンス」である(P106)。

そこでも、やはり演劇は重要なカリキュラムになってきているのだ。

 アメリカの大学は、そのほとんどがリベラルアーツ(教養教育)を基軸としており、そこには必ずと言っていいほど演劇学科が設置されている。(中略)副専攻で演劇をとっている学生も多くいて、医者や看護師やカウンセラーなど、対人の職業に就く者は、それを一つのキャリアとさえしている。
 私はこれを称して、「日本では、大学で演劇をやっていたなどと言うと就職できないが、アメリカでは演劇をやっていたことで就職が有利になるのだ」とうそぶいてきた。しかし、こういった戯れ言も、何百回も言い続けるとやがて真実味を帯びてくる。風向きが変わってきたのだ(P79-80)。

もちろん、文化も万能薬ではない。
ただ、今まで考えたこともない切り口なので、ぜひこれからの日本を考える立場の人には、この本を読んでほしい。

 

世界に追いつけ追い越せ、という時期はすんだことを受け入れ、あとはゆっくり下っていくことに私たちも慣れるしかない。
生き方も少しずつ変えればいいのではないだろうか。

 私たちは、そろそろ価値観を転換しなければならないのではないか。雇用保険受給者や生活保護世帯の方たちが平日の昼間に劇場や映画館に来てくれたら、「失業してるのに劇場に来てくれてありがとう」「生活が大変なのに映画を見に来てくれてありがとう」と言える社会を作っていくべきなのではないか。そしてその方が、最終的に社会全体が抱えるコストもリスクも小さくなるのだ(P18)。

実際に西欧には、「失業者割引」や、低所得者向けの文化プログラムがあるそうだ。
しかも、日本の(平田さんは「異常に高い」と書かれている)映画やお芝居などのチケット代は、文化政策を改善すれば下げることが可能なのだという。

 だが、本当に、本当に、大事なことは、たとえば平日の昼間にどうしても観たい芝居やライブがあれば、職場に申し出て、いつでも気軽に休みが取れるようにすることだ。職場の誰もが、「あいつサボっている」などと感じずに、「なんだ、そんなことか、早く言ってくれよ。その仕事なら俺がやっておくよ。舞台を楽しんできな」と言い合える職場を作ることだ。
 それが、私が考えるコミュニケーションデザインであり、コミュニティデザインだ。そのためのコミュニケーション教育だ(P236)。

これができる世の中になるのなら、下り坂も悪くないのではないか。

 

やはり、この本でもむずかしいながらハッとするところがあった。一番印象に残ったのは、地方自治体が、いかに正しく自分たちの価値を見つけ、それを資本として活用していくか、という一節。

 自分たちの誇りに思う文化や自然は何か。そして、そこにどんな付加価値をつければ、よそからも人が来てくれるかを自分たちで判断できる能力がなければ、地方はあっけなく中央資本に収奪されていく。
 私はこのような能力を、「文化の自己決定能力」と呼んでいる。
 現代社会は、資本家が労働者をむち打って搾取するような時代ではない。巨大資本は、もっと巧妙に、“文化的に”(※本では傍点)搾取を行っていく。「文化の自己決定能力」を持たずに、付加価値を自ら生み出せない地域は、簡単に東京資本(あるいはグローバル資本)に騙されてしまう(P158)。


『わかりあえないことから』とこの本の間に出た、『新しい広場をつくる』の内容もたくさん出てきます(2013刊)*2

憂国論」に近いトーンではありますが、希望もあります。
下り坂にとまどわないために、読んでみてください。

私のアクション:「文化の自己決定能力」を、自分に置き換えて考えてみる
■レベル:離 日本がこれからどこに向かうか、というテーマ。個人が楽しみのために読むレベルを超えています…

※この本のメモはありません

 

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*1:引用は終章からのものですが、このテーマは“三つの寂しさと向き合う”として序章にも出てきます

*2:こちらは新書ではなく、専門書に分類される本のようです