毎日「ゴキゲン♪」の法則

自分を成長させる読書日記。今の関心は習慣化、生産性、手帳・ノート術です。

「自分の仕事」とは何か考えてみる☆☆☆☆

著者・西村佳哲さんは“つくる・書く・教える”3種類の仕事に携わるプランニング・ディレクター。美大でも教えられている。
この本は、前著『自分の仕事をつくる』の6年越しの続編だそうだ。ビジネスブックマラソンで紹介されていたので読んでみた。
私は前著は読んでいないが、こんなに美しい本があったのかと感激した。


本そのものはとてもシンプルな作りだ。グレー一色のソフトカバーで、手になじむ大きさと厚み。だが、仕事とは何か、という疑問の本質にここまで迫った本を初めて読んだ。仕事のことについて書いてあるのに、まるで物語を読み進めるようなときめきがある。


たとえば、高校生ぐらいの女の子が「美容師になりたい」と言ったとしたらどうするか。著者は「どんな美容師になりたいの?」と聞くことをすすめている。それは、実は“その子が本当になりたいものが美容師とは限らない”からだ。
心の中のいろいろな願いや望みを投影する対象が、たまたま知っている職業として「美容師」になっただけかもしれない。

そんな風に、浮かぶ疑問のひとつひとつをていねいに読み解いていく。私はこんな風に仕事について考えたことがなかったので、とても新鮮だった。そして、おそらくこれが最終解だろう。

この本を読むことで、きっと誰もが「自分の仕事」について考えてみると思う。そして、それはよりよく生きる、自分を生きるということと同じことだと気がつくきっかけになるのではないだろうか。
前著も読んでみたくなった。


以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。

<自分の仕事>にする(P6)

僕が出会った人たちは、仕事というより、<自分の仕事>をしているように感じられた。
「ただ働いているだけ」といった空気を漂わせている人はひとりもいなかった。第3者の依頼で取り組んでいる仕事でも「頼まれたからやっている」匂いはない。「ほかの誰がやっても構わない」ような取り組み方は、どうやらしない。やるからにはどんな仕事も<自分の仕事>にする。

成果だけを手に入れることはできない(P23)

成果としてあらわれる仕事は、いわば作物のようなものだ。たとえばトマトの「実の部分」だけをつくることはできない。
果実は1本の苗の一部分で、その苗もある生命の働きの一部分である。1粒のトマトを食べる時、わたしたちは、そのトマトを育んだ土壌、気象、生産者の営みすべてを口にしている。
デザインやものづくりもそうだし、それは会議用の書類づくりや、店頭の接客のような仕事でも変わらないと思う。

役割やルール、表面的なコミュニケーション・スタイルを楯にして、自分自身の実感や居所をあかさない人は、関係性を冷やす。(P28)

より<自分>になる仕事(P48)

さらに言ってしまえば、私たちは美容師になりたいわけでも野球選手になりたいわけでもなく、<自分>になりたい。より<自分>になる仕事をさがしている。
働くことを通じて「これが私です」と示せるような、そんな媒体になる仕事を求めているんじゃないか。
なにがしたいということより、それを通じてどんな自分でいたいとか、どう在りたいということの方が、本人の願いの中心に近いんじゃないかと思う。

イオニアとして仕事をする(P51)

どんな結果を得るにせよ、優れたフォロワーであるより、つまり他の誰かみたいになるより、自分自身を社会に差し出してみる方が、少なくとも後味はいいんじゃないかと思う。こと<自分の仕事>については誰もが世界代表であり、最前線に立つパイオニアだ。取り組んでいる人が他にいないので。

互いにいかし合っている(P65)

本人の潜在的な「なにか」をまわりの人間が感じ取り、動いてくれることが往々にしてある。
(中略)
自らハッキリしていなくても、わからなくても、他の人が感じたり、気づいて光をあててくれる<自分>があるということ。他人の夢を押しつけられるのは願い下げだが、そんな気づきはありがたい。
わたしたちは個人の意志で生きているように見えて、人にいかされたり互いにいかし合ったり相互の働き合いを通じて生きている。

好きなことより、大切にしたいことは?(P67)

という問いの方が、まだ有効なんじゃないかと思う。彼らにはそれぞれ間違いなく、なにか大切にしているものがある。

友人のアーティストが、20代の頃聞かせてくれた話(P69)

――自分は高校で美術部に入って、本格的に絵を描くようになった。大学の頃からいろいろなことに手を出して、音楽もやったし、演劇もやった。今はイラストレーターとして食べていこうとしている。企業とグラフィック・ソフトの開発もしている。いろいろやっている。けど、自分がいちばん「できてない!」と思えるのは、やっばり絵なんだよね。だから僕は、絵を描いていくと思うんだ。――
この話を聞いた時は目から鱗が落ちる思いがした。「できてない」ことが、可能性でもあるということ。

「できてない自分」が教えてくれること(P71)

悩みは、「こうありたい自分」と「そうではない現実」のギャップから生まれる。意識化されていない場合も含み、「こうありたい」というイメージがなにかしらない限り、悩みは生じようがない。
わたしたちはつい思い通りにゆかない自分の現実や駄目っぷりに注目して、情けなくなったり、ヘコんだりするわけだが、まるで望ましくない自分のありさまにも価値はあって、それは自分の望みや求めの在処を示してくれることだと思う。
心の水面にさざ波が立つ時、それまでの平坦だった気持ちに、プクッと微かな膨らみが生じる時。その下にはまだ現実化していないなにかがある。
それはほかでもない、自分だけの資産だ。
<自分の仕事>は余所にあるわけでも、いつか天から啓示のように降ってくるわけでもなく、今ここにすでにある。「青い鳥」でメーテルリンクが描いたように。しかも時には「まるで駄目」とか「いけてない」と感じてしまうような部分に。

自分の内側から生まれるもの(P71)

なにが流行っているとか儲かるとか、このように生きるべきといった外側の指標でなく、自分の中の葛藤。「ザワザワする」ところ。「お客さんではすまない」部分。「好き」より、さらに前の感覚的なもの。
何かに触れた瞬間に心の界面に生じる変化の質や、その源に意識を傾けることで、自分の中から生まれてくる「力」と一緒になれるんじゃないか。

加藤晴之さん(蕎麦屋・黒森庵店主/元ソニーデザイナー)のことばより(P104〜105)

僕の中で「生きる」ということは「自分を表現する」ことです。どれだけ自分を正直に表現できているかということが、人と向かい合った時にまず大事なことなんです。
(中略)
人と関わる時に僕がどんな気持ちでいるかというと、相手を尊敬しているんです。それがなかったら相手の言葉は僕の耳に入ってきませんから。常に尊敬する。それと僕が表現したいこと、生きたいということの接点を、毎瞬毎瞬こう探しているんです。

「待つ/待たない」の感覚の間(P113)

教育の現場でも医療 の現場でも、あるいは恋人同士の関係においても、あらゆる対人関係は「待つ/待たない(待てない)」という両端を持つ軸線上に散らばっている。
そして待つことは信頼に、待たないことは恐れに由る。人間はこのふたつの感覚の間で揺れている。

信用と信頼は違う。(P114)

前者は頭がするもの、後者は心がするものだ。少なくとも信頼は、約束や常識によるものではない。その象徴的な姿勢である「待つ」という態度は、むろん無関心によるものとも違う。

自分=わたしたち(P133)

<自分>が、同時に<わたしたち>でもあるような感覚で取り組めるかどうか。これがその仕事を閉じたものにするか、開かれたものにするかの違いを生むように思う。

「より生きている」という感覚(P146)

人は「より生きている」という実感に喜びをおぼえる。仕事はその感覚を得やすい媒体のひとつである、というだけのことだ。

思わず手がのびること(P150)

他の人には任せたくないこと。思わず手がのびて、掴みにゆくような衝動が生じること。それは思考というより、存在から湧き上がってくる動きだ。そしてそれが成果に至るひとつながりの働きとして他者や社会に差し出される時、その人ならではの、かけがえのない<自分の仕事>になるんじゃないかと思っている。

人が一番傷つくのは、(P166)

他人に同行それることより、本人が本人を裏切ることなんじゃないかと思う。他人はそもそもコントロール不可能だし、望ましくないことをされても「あの人はそうだったんだな」と思えば割り切れる。しかし、自分という身近な他者はその限りではない。
誇らしさとは、自分についても他人についても、本人が本人を裏切らないことによって生まれるものだ。

<自分の仕事>をすることで社会が豊かに(P180)

やらされてやるような労働は、したくないし、してほしくもない。どんな難しさがあろうと、ひとりひとりが自分を突き動かしている力、この世界に生まれてきた力を働きに変えて、つまり<自分の仕事>をすることで、社会が豊かさを得る。