毎日「ゴキゲン♪」の法則

自分を成長させる読書日記。今の関心は習慣化、生産性、手帳・ノート術です。

無血開城はこの人だからできた☆☆☆

齋藤孝先生が複数の著書で絶賛していた、勝海舟の話をまとめた本。

明治維新後、新体制作りに尽力した人たちはほとんど亡くなり、30年後に生きていたのは勝海舟くらいだったそうだ。
歯に衣着せぬ物言いで面白かったのだろう、新聞記者などいろんな人が自宅を訪れて聞いた話をまとめたのがこの本だ。

講談社学術文庫でしかも分厚い。どんなにむずかしいかと身構えていたものの、読んでみたら案外面白かった。

何しろ、ほとんど「談話」だ*1
言葉がわかるのか心配したが、下のメモを見ていただければわかるとおり、ほとんど現代語訳の必要がないものだ。


とにかくスケールが大きいというか、豪放磊落とはこのことか、と思うようなエピソードばかり。
「死ぬかと思ったが、死なずにすんだ」話というのがあまりにたくさん出てくるので、はじめは大げさな物言いをする人なのかと思ったが、当時は暗殺者も多く、斬られたり撃たれたりして死んだ人も多かったのだ。そのくらい、明治維新は危険と隣り合わせだったのだろう。
中でも、あの「人斬り以蔵」こと岡田以蔵と一緒に歩いていたある夜に襲われ、以蔵が瞬時に反応したおかげで死なずにすんだというエピソードは特に印象深かった。
こんな風に、日本史の教科書で太字になっている人の名前が存分に出てくる。教科書と違い、生身の人間として出てくるので面白い。勝海舟も言いたい放題だ。手放しでほめているのは西郷隆盛ともうひとりだけ。
この時代の歴史が好きな人にとってはたまらない本だろう。


特に心に残ったのは、何度も死ぬような目に遭いながら、生きのびられた理由を剣術の修業と禅の修業*2によって、精神を鍛錬していたから、としていること。
剛胆さはやはり鍛錬から来るのだ、と感じた。

他にも身の処し方や世の中に対する苦言などは、現代にも通じるものがある。
松岡正剛さんの千夜千冊にこの本を紹介した記事がある。
読んでみて興味を持たれた方は、お正月休みに読む1冊に入れてください。
私のアクション:一生懸命は休み休みにする
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以下は私のメモなので、興味のある方はどうぞ。

相場は上がったり下がったりするもの(P64)

上つた相場も、いつか下る時があるし、下つた相場も、いつかは上る時があるものサ。その上り下りの時間も、長くて十年はかからないヨ。それだから、自分の相場が下落したと見たら、じつと屈んで居れば、しばらくすると、また上つて来るものだ。

禅と剣がおれの土台(P294)

かうして殆ど四年間、真面目に修業した。この坐禅と剣術とがおれの土台となつて、後年大層ためになつた。…この勇気と胆力とは、畢竟この二つに養はれたのだ。危機に際会して逃れられぬ場合を見たら、まづ身命を捨てゝかゝつた。しかして不思議にも一度も死なゝかった。こゝに精神上の一大作用が存在するのだ。

人間長寿の法(P316)

…いはゆる思慮の転換法というふもので、すなはち養生の第一義である。つまり綽々たる余裕を存して、物事に執着せず拘泥せず、円転闊達の妙境に入りさへすれば、運動も食物もあつたものではないのさ。

大胆に無用意に(P322)

…世に処するには、どんな難事に出会つても臆病ではいけない。さあ何程でも来い。俺の身体が、ねぢれるならば、ねじつて見ろ、といふ了簡で、事を捌いていく時は、難事が到来すればするほど面白みが付いて来て、物事は雑作もなく落着してしまふものだ。なんでも大胆に、不用意に、打ちかゝらなければいけない。…むつかしからうが、易からうが、そんな事は考へずに、いはゆる無我といふ真教入つて無用意で打ちかゝつて行くのだ。もし成功しなければ、成功するところまで働き続けて、決して間断があつてはいけない。世の中の人は、たいてい事業の成功するまでに、はや根気が尽きて疲れてしまふから、大事が出来ないのだ。

一生懸命では根気が続かん(P328)

困苦艱難に際会すると、誰でもこゝが大切の関門だと思つて、一生懸命になるけれど、これが一番の毒だ。世間に終始ありがちの困難が、一々頭脳に徹(こた)へるやうでは、とても大事業はできない。こゝは支那流儀に平気で澄まし込むだけの余裕がなくてはいけない。

無神経は強い(P332)

…無暗(むやみ)に神経を使つて、矢鱈に世間の事を苦に病み、朝から晩まで頼みもしないことに奔走して、それがために頭が禿げ鬚が白くなつて、まだ年も取らないのに耄碌(もうろく)してしまふといふやうな憂国家とかいふものには、おれなどはとてもなれない。

必ずこれのみと断定するな(P344)

主義といひ、道といつて、必ずこれのみと断定するのは、おれは昔から好まない。単に道といつても、道には大小厚薄濃淡の差がある。しかるにその一を揚げて他を排斥するのは、俺の取らないところだ。人が来て囂々とおれを責める時には、おれはさうだらうと答へておいて争はない。…もしわが守るところが大道であるなら、他の小道は小道として放つておけばよいではないか。

*1:たまに本人が読んだ和歌や俳句とその解釈が入ります

*2:剣術の一環としてやっていたそうです